本日のローズンゲンの御言葉です。

「今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。」出エジプト19:5

「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ」2テモテ1:9

本日の箇所には、次のように記されています。

「今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。」

この御言葉は、出エジプト記の中の一節です。この時、イスラエルの民は、エジプトの奴隷生活から脱出し、葦の海を渡り、シナイ山までたどりついたところでした。この時、彼らはどんな思いだったのでしょう。これまでイスラエルの民は、長年、エジプトで奴隷として強制労働を強いられていました。

そもそも、エジプトの国で寄留者だった彼らはエジプトの国では厄介者扱いでした。イスラエルの民の数が多くなると、エジプトのファラオは、そのことを危惧し、これ以上、イスラエルの民の数が増えないようにと、生まれてくる男子を殺してしまうのです(出エジプト1:15-21)。たとえ生きながらえることができたとしても、理不尽な形で辛い強制労働を強いられました。そんな経験を散々させられた末に、ようやくエジプトの生活から抜け出し、イスラエルの民はシナイ山までやって来ることができたのです。しかし、正直言って、エジプトを脱出したとしても、これまでのエジプトの経験の痛みや傷跡は、心の奥深くに残っていたのではないかと思います。これまで散々、理不尽な扱いを受け、その度に辛い思いをしたり、傷つけられたりしてきました。また、せっかく生まれてきた男子が、まるで邪魔者であるかのように無残に殺されてしまったり、元気に成長しても、まるで物扱いされるかのような奴隷としての日々を過ごしてきた…。そんな日々を過ごす中で、自分たちは何のために生きているのだろうか、

そもそも自分たちが生きている意味なんてあるんだろうか、そんなふうに思ってしまうようなこともあったのではないかと思います。ようやくエジプトの生活から逃れてくることができたわけですが、エジプトで経験した痛みや傷というのは、未だ心の奥深くに残っていたのではないかと思います。

そんな彼らに呼びかけられた御言葉が本日の御言葉でした。

「あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。」

この言葉は、彼らにとって、どれほど慰められ、励まされる言葉だったのだろうかと思います。自分たちは決して厄介者ではないし、自分たちは神様にとってかけがえのない存在なんだ…。そのことを知らされながら、彼らは新しい信仰の歩みを踏み出していったのです。改めて、私たちにとって大切なのは、この神様と出会うことなんだなと思いました。イスラエルの民ほどではないにせよ、私たちも、イスラエルの民と同じような思いで苦しんでいたり、もがいていることがあるかも知れません。自分たちは何のために生きているのだろうか、そもそも自分たちが生きている意味なんてあるんだろうか、そんなふうに思ってしまうようなこともあるかも知れません。そんな私たちに、神様は何より、「わたしの目にあなたは価高く、貴い」(イザヤ43:4)と呼びかけてくださっているのです。私たちの信仰の歩みは、この神様に出会うことから始まるのだと思います。そして、この神様に期待し、神様の招きに応えて、御言葉に生きるのです。イスラエルの民の信仰の歩みは、まさにそのように始まっていったんだなということを思いました。 (鈴木牧人)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Translate »