「信仰の習慣」
Ⅰコリント15:29-34
本日は「信仰の習慣」というメッセージ題にしました。私たちは信仰者としてどんな習慣を身につけているでしょうか。色々なことが言えるかも知れません。たとえば、私はバプテスマを準備しておられる方にお話をするのは、聖書を読むこと、祈ること、教会に集うことを「ぜひ習慣にしてください」と勧めています。そして、聖書を読むことについて、「聖書は読むものではなくて、食べるものなんです」と話しています。「神様の御言葉は私たちにとって命の言葉であって、心の糧です。ですから、聖書を読もうということよりも、心の糧として食べるというイメージを持ってください」とお話しするのです。私自身、ある牧師からそのように勧められました。私はその言葉で聖書に対する向き合い方が変わりました。それまで「聖書を読まなきゃ」と思っていた時には、中々読めなかったのですが、「聖書は食べ物なんだよ」と教えられた時に、聖書を読むことに抵抗が無くなったのです。
私たちは食事をする時、色々な形で食事をしていると思います。ご馳走を食べるには、ゆっくり一口一口を噛みしめて、味わうようにして食べているのだと思います。しかし、忙しい朝などはバタバタとしながら、とにかく口にものを放り込むように食べて、出かける時などもあるのではないでしょうか。聖書を読む時にもそういうことがあってもいいんじゃないかと思います。御言葉の一つ一つを味わうように読む時もあれば、ゆっくり聖書を読むこともできず、聖書を開いても中々、心に入ってこないような時、それでも御言葉に触れ続けていくことは大事だと思うのです。たとえ、自分の中で御言葉が入ってこないように思えても、それでも御言葉を食べようとしていく時、私たちも気づかない間に養われているということがあるのです。
祈りについても同じです。置かれている状況で、自然と心が祈りに向かっている時もあれば、心が騒いで、祈っても、心どこかここにあらずというような時もあるかも知れません。しかし、それでも祈りの時を大切にしていく…。そうすることが私たちを整えていくということがあるのだと思います。ですから、そのような形で、聖書を読むこと、祈ることを「ぜひ習慣にしてください」とお話しています。
私はそんなふうに信仰の歩み一つ一つを「良い習慣」にするというのは、とても大事なことだと思っています。聖書を読むこと、祈ること、日曜日の礼拝に集うこと、祈祷会に集うこと…。その一つ一つを意識してすることも大事ですが、自然な習慣となることも大事だと思うのです。そして、何というのでしょう。聖書を読むこと、祈ること、教会に集うことが、私たちにとって、ごくごく自然なことで、私たちにとって、何よりの落ち着き場所、居場所になっていったらと思うのです。私たちは、これら信仰の一つ一つのことを「ねばならない」というふうに受け止めてしまうことがあります。でも、「ねばらない」では、私たちは、心を置くことはできないのではないでしょうか。そうではなくて、「ここが居場所なんだな」と思いながら、聖書を読み、祈り、教会に集うことができたらと思います。