本日のローズンゲンの御言葉です。
主はこう言われた。「いつまで、あなたはわたしの前に身を低くするのを拒むのか。」出エジプト10:3
神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。ヤコブ4:7
本日の箇所には、次のように記されています。
「主はこう言われた。『いつまで、あなたはわたしの前に身を低くするのを拒むのか。』」
この言葉は、エジプトの王ファラオに語られた言葉です。この時、ファラオは、神様から「イスラエルの民を解放するように」と求められていたにも関わらず、中々解放しようとしませんでした。
そんなファラオに対して、神様は「いつまで、あなたはわたしの前に身を低くするのを拒むのか」と言われたのです。何故、ファラオはイスラエルの民を解放することを拒み続けたのでしょうか。
イスラエルの民を解放するということは、ファラオにとって大きな痛手だったのだと思います。
ですから、簡単にそうすることはできなかったのだと思います。
しかし、簡単にはできなかったかも知れませんが、どうしてもできないことではなかったと思います。しかも、神様によって、様々な災いを受け、ファラオにしてみれば、イスラエルの民を解放すること以上の痛手を受けていました。そんな中で、ファラオの家臣たちの中からでさえ、「この人々を去らせ、彼らの神なる主に仕えさせては、どうでしょう」と語り出す者もいたのです。
しかし、ファラオはイスラエルの民を去らせようとはしませんでした。何で、これほどまでに去らせることを拒んでいるのでしょうか。色々なことが言えるかも知れません。しかし、何より、ファラオの意地があったのではないかと思います。ギリギリの状況で、本当なら受け入れてしまえば、すぐに問題は解決したはずなのに、それが自分でも薄々分かっているのに、そうすることができない…。そんな思いがあったのではないでしょうか。そんなファラオの姿から考えさせられます。
私たちにも同じようなことがないでしょうか。神様に明け渡せない「王座」のようなものを私たちも持っていないだろうかと思います。その「王座」を神様に渡してしまえばずっと楽なのに…。
できないことでもないはずなのに…。しかし、そうすることができない…。
ファラオにしてみれば、ここでモーセに屈してしまうことはエジプトの王として受け入れられないこと、認められないことだったのではないかと思います。しかし、何か自分がこれまで守ってきたものがガラガラと崩れてしまうかのような思いにさせられたかも知れません。そんな色々な思いの中、どうしても譲れないものがあったりしたのではないかと思います。しかし、そこに解決があり、救いがあり、安息があったのでした。私たちも同じようなことがあるかも知れないと思います。
私たちが私たちの「王座」を神様に明け渡そうとする時、そこには色々な葛藤がありますし、迷いがありますし、恐れがあります。どうしても明け渡せないでいる自分が潜んでいたりするかも知れません。しかし、そのような思いを置いて、主を受け入れ、主に明け渡す時、そこに本当に解決や安らぎを見出せることがあるのです。
そして、何よりそのように自分に砕かれ、私たちの「王座」を神様に明け渡す時、そこから救いは始まるのです。 (鈴木牧人)