「置かれた境遇に満足する」

フィリピ4:10-13

 先日、インターネットのコラムで「コロナ時代の最大の贅沢は、生身の人間に会うことなんじゃないでしょうか」というようなことが書かれていました。この言葉は私にとって衝撃的でした。これまで、そんなふうに思ってことがあるだろうかと思ったのです。ある意味、「人に会う」ということなど、それまでの私たちにとっては当たり前のことで、それが贅沢なんて思ったこともないし、場合によっては人と会うことが煩わしいことさえ思えることもあったのではないかと思うのです。ですが、今回のコロナを通して、確かにそんなふうに思えている私たちがいるのではないでしょうか。コラムを読みながら、改めて、今回のコロナを通して、私たちの価値観が大きく変わってきているんだなと思いました。

 本日の箇所には、「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」(4:11)と記されています。この箇所を読みながら、私たちにとっての「満足」って何だろうかと考えさせられました。もちろん、それは人それぞれなのだと思います。ですが、私たちは今回のコロナを通して、この「満足」ということに関しても、これまでとは違う感覚や考え方になってきているのではないかと思います。

 本日の箇所で、パウロは「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」と語っていますが、実際のパウロが置かれていた状況は、周りから見て、どう見ても「満足」と思えるような状況ではありませんでした。この時、パウロは牢獄に捕らえられていたのです。にも関わらず、パウロは「自分の置かれた境遇に満足しているんだ」と語っています。何でこんなふうに言えたのでしょう。私は本日のパウロの言葉を読む時に、パウロが、どういう境遇に置かれていたとしても、変わらない眼差しでもって、何が大切なことなのかを見つめ、恵みを恵みとして覚えていたんだろうなということを思います。そんな中、周りがどう思おうと、どう評価しようと、「私は私として、満足しているんです」と語っているのではないかと思うのです。

 それでは、この時、パウロは何を見つめていたのでしょう。色々なことが言えるのかも知れません。ですが、本日の御言葉から読み取ることができるものがあるとすれば、例えば、主にある兄弟姉妹の確かな繋がりを何よりもかけがえのないものとして喜ぶことが言えるでしょうか。加えて、どんな状況にあっても「イエス様はこのわたしと変わらずに共にいて、生きて働いてくださっている」ということを噛みしめながら、イエス様への確信と信頼に生きることでしょうか。そういう眼差しを見失わない中で、その時々に置かれた状況と向き合っていく時に、たとえ困難な状況に置かれたとしても置かれたその時々の状況の中で、それでも喜びを見いだし、満たされるものを見いだすことができたのではないかと思うのです。そして、それというのは、今、私たちがこの時代を生きるための大切なヒントなのではないかと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Translate »