「わたしが示す地へ」

創世記12:1-9

モルトマンという神学者が語った言葉に「不安には良く似たところの姉妹がいる」という言葉があります。その姉妹は「希望だ」です。「不安」と「希望」というのは、よく似ているというのです。なぜかと言えば、「不安」にしても、「希望」にしても、私たちの心を将来のことに眼差しを向けさせていくからです。「不安」を通して、私たちは将来のことに対して身構えていきます。また「希望」を通して、私たちは将来のことから励ましと力を得ていきます。そのように「不安」と「希望」というのは似ているんだとモルトマンは語りました。私はこの言葉を最初聞いた時、「なるほど」という思いと同時に、「そうかな」という思いがありました。言われていることは分かるのですが、やっぱりイメージが違いすぎるように思ったのです。言うなれば、コインの裏と表のようなものでしょうか。一つに繋がっていると言われても、全く別もののような印象がありました。ただよくよく考えた時に、そこにこそ大事なメッセージがあるのかも知れないとも思いました。「不安」と「希望」というのは、インの裏と表のように、一つのものであっても、全く別のもののようであるのです。それゆえ、私たちはコインを見ている時に一面の側しか見えていないように、「不安」を見ている時にはその部分だけしか見えずに、その裏側にある希望の部分が見えていないことがあるのです。そんなことを思いながら「コインを裏側から表側にひっくり返すように、不安の中にある希望を見いだすことができたら」と思いました。そして、そのようにコインを裏側から表側にひっくり返す力こそ、信仰なのではないかと思いました。私たちは信仰によって、不安の中にある希望を見いだしていくのです。信仰とはそのようなものなのではないでしょうか。そして、そのような信仰を実際の歩みの中で誰よりも生きてきた人たちが、創世記に記されているアブラハム、イサク、ヤコブなのではないかと思います。

今回、創世記に記されているアブラハム、イサク、ヤコブの歩みについて読み進めていくことになりました。その理由は、聖書が語る信仰の原点について考えることができたらと思ったからです。現在、私たちは、このコロナの状況にあって、迷ったり、悩んだりしていますが、それというのは、アブラム、ヤコブ、イサクも同じでした。そんな中、彼らは信仰に生きたのです。その信仰というのは、まさに不安だらけの世界の中で、その信仰によって、コインをひっくり返すように希望を見いだしていくような歩みだったのだと思います。今回、改めて創世記からそんな信仰を読み解いていけたらと思っています。本日の箇所でもそうでした。本日の箇所で神様は未だ「アブラム」と呼ばれていたアブラハムに対し、「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい」(12:1)と言われました。しかし、神様が示された土地というのは、アブラムがまだ行ったこともない土地でした。どう考えても、不安を感じないわけがなかったと思います。そのような状況の中でアブラムは旅立ちました。アブラムはまさに不安のただ中で見つめるべきものを見つめながら、旅立っていったのです。

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