「涙をぬぐい取ってくださる」
マタイ28:1-15
イースターおめでとうございます。今回のイースター礼拝を献げるにあたってポストカードを作りました。そのカードにイエス様が十字架で死なれた後、十字架から降ろされ、イエス様の母マリアや、ヨセフに抱きかかえられている様子を描きました。この絵に合わせて、一つの御言葉を載せました。それが先ほど司会者の方が招きの言葉でお読みくださったヨハネの黙示録21:3-4の御言葉です。
「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(黙示録21:3-4)。
この御言葉は、来たるべき終わりの日の希望について語っている言葉です。私たちが生きるこの世界には、悲しいことがあります。苦しいこともあります。涙を流すこともあります。ですが、やがて来たるべき終わりの日には、神様が全てのものを新しくしてくださり、私たちの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる…。そのように約束してくださっているのが、この御言葉です。本来であるなら、この黙示録21:3-4の御言葉は「来たるべき終わりの日の約束の言葉」として読む箇所です。しかし、今回はあえてイースターのテーマとして、この御言葉を選び、ポストカードに載せました。と言いますのは、イースターの出来事も黙示録21:3-4で記されている「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」という出来事だと思うからです。
本日の聖書の箇所は、イースターの朝、マグダラのマリア、そして、イエス様の母マリアが、イエス様が葬られた墓に向かっていました。イエス様が十字架で死なれ、彼女たちは、言葉にならないような悲しみに包まれていたと思います。そんな彼女たちが、「イエス様が復活された」という知らせを聞きます。すると、「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。(マタイ28:8)と記されています。それまで深い悲しみで包まれていた彼女たちは、イエス様が復活されたことを知り、余りの出来事に恐れながらも、「大いに喜んだ」のでした。まさに、彼女たちにとってイースターの出来事は、主の御業によって、それまでの涙をぬぐい取られた出来事でした。
そんなふうに、本日は、黙示録21:3-4の御言葉とイースターの出来事を重ね合わせながら、考えたいと思います。黙示録21:3-4には、神様が「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」とありますが、その前に「神は自ら人と共にいて」「その神となり」という二つのことが書かれています。これらのことと「彼らの目の涙がぬぐい取られる」ということが繋がって語られているのです。「神様が自ら共にいてくださる」ことが、私たちにとって「涙がぬぐい取られるような喜び」になっているのです。逆を言うなら、それまでは「そう思えない」思いを通らされていたということなのではないでしょうか。「その神となり」ということもそうだと思います。それまでは「そう思えない」思いを通らされていたのだと思います。「自分たちにとっての神様がいない」「何を信じたらいいのか分からない」状況があったのです。このこともイースターの出来事と重なっているのではないでしょうか。