「満ち足りた人生」
創世記25:7-11
本日の箇所はアブラハムの最晩年の記述です。アブラハムの最後について25:8では次のように記されています。「アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」(25:8)。アブラハムより前、「満ち足りて死んだ」というふうに記されている人はいません。ですから、ここで「満ち足りて死んだ」ということは特別なメッセージが込められているのではないかと思うのです。
本日の箇所で「満ち足りて死んだ」と語られているアブラハムの人生って、どんな人生だったのでしょうか。大きく三つのことを思います。その一つ目として思うのは、アブラハムの信仰の生涯を振り返って考えてみる時、「神様に従って歩んできて、本当に良かった」そんなふうに思える生涯だったんじゃないかということです。カナンの地での歩みの中では本当に色々なことがありました。後継者問題では、本当に悩み、苦しんできました。神様から子孫が星の数のように与えられると約束されていたのに、実際には一人の子どもさえ与えられない状況が続き、自分のところにいる僕を後継者にしようとしたり、女奴隷との間に与えられた子どもを後継者にしようとしたり、アブラハムは色々な手立てを考えたりしました。ですが、その都度、裏目に出て、トラブルが起こったり、失敗をしてしまいました。そんな経験をする中で、「神様、何でこんなことがあるんですか」という思いにさせられたり、「神様、いつまで忍耐して待たなければならないんですか」という思いにさせられてきました。しかし、色々なことがある中で、百歳になって、ようやくイサクが与えられました。その他にもカナンの地の歩みでは本当に色々なことがありましたが、最終的には一つ一つのことが整えられ、守られてきました。そんな経験をさせられながら「神様を信じきて良かった」という思いにさせられたのだと思います。そして、そのような思いで、人生の最後を迎えようとしていた時、アブラハムは本当に満たされていたのではないかと思うのです。
加えて思うのは、アブラハムの生涯は、アブラハムだけで完結するような生涯ではなかったということです。神様はアブラハムから神様の御業を始められました。しかし、その神様の御業は、アブラハムで完結するようなものではなく、アブラハムからイサクへと引き継がれ、さらに後の人々に引き継がれていくものでした。そんな中、アブラハムは、その生涯において、神様の御業のほんのスタートの部分にしか関わることができなかったということが言えるかも知れません。ですが、アブラハムには、二つの思いがあったのだと思います。一つは、たとえ自分の生涯の間は、神様の御業は途中までしか見られなかったとしても、神様はこの先、御業を成し遂げてくださる…。そんなふうに将来にさらなる期待をしながら、生涯を全うすることができたのではないかということです。同時に、まだまだ色々なことは途上で課題ばかりだったかも知れませんが、それでも自分なりに、務めや役割は果たしてきた…。そういう思いもあったのではないでしょうか。この二つのことも、アブラハムの生涯を満ち足らせていたのではないかと思うのです。