「王を求める時代」 

サムエル記上8:1-21

 ここに書かれているのは「イスラエルの民が自ら王を求めた」という記述です。それまでイスラエルは12の部族に分かれ、その部族ごとに様々なことを行なっていた共同体でした。基本的にそれぞれが自分たちの判断で歩んでいて、その時々に士師が現れたり、サムエルのような指導者が現れたりして人々を導いていました。ですが、その一方で人々は思い思いのまま、「それぞれ自分の目に正しいとすることを行」(士師21:15)い、混乱やトラブルが起こったりしていました。そういう状況の中、イスラエルの人々はついに、自分たちの王を立てようとしていったのです。

本日の箇所には、サムエルと人々とのやり取りが記されています。この時代、イスラエルの人々を導いていたのは、サムエルでした。しかし、サムエルは年老いたので、自分の代わりの後継者を立てなければなりませんでした。そうしてサムエルは自分の二人の息子を後継者に選んだのですが、サムエルの息子たちは、サムエルのように歩まず、自分たちの立場をいいことに不正を始め、賄賂を取り始めてしまいます。この様子を見たイスラエルの人々は、サムエルのところに出て行き、サムエルの息子たちの振る舞いを訴え出て、代わりの王を立ててくれと申し出たのでした。

 本日の箇所を読む時、まずこの複雑な状況について考えさせられます。イスラエルの人々が王を求めた時、サムエルはそれが「悪と映」(8:6)りました。イスラエルの人々のしようとしていることを「間違っている」と思ったのです。ですが、人々はサムエルに対して不信感を募らせていましたから、すでにサムエルの言葉が聞けなくなっていました。そういう状況の中、きちんとした対話をすることができなくなっていたのです。結果、大人数の意見に流され、最初の王が立てられることになったのでした。「そんなんでいいのだろうか」と思ってしまいます。本日の箇所で何より心に迫ってくるのは「そこでサムエルは主に祈った。」(8:6)という言葉です。サムエルは、イスラエルの人々の「王を与えよ」との要望が「間違っている」と考えていました。ですが、サムエルは、その思いに固執することなく、主に祈り、御旨を尋ねたのでした。私たちの歩みにも、サムエルやイスラエルの民が通らされたような、意見の衝突や、思いのすれ違いを通らされることがあります。それぞれに言い分があったり、問題や課題があるかも知れません。そんな私たちが互いに自分たちだけの思いに留まるなら、いつまでも平行線のまま、結局、大きな声、大多数の意見に流されてしまうかも知れません。時にそれは危ういことです。大切なのは、色々な思いがある中で、時に自分の思いさえ置いて、主に心を静めて祈り、御心を求めることなのだと思います。

今の時代、本当に不安なことばかりで、どうしても目先のことでいっぱいになってしまいそうになり、周りに押し流されながら、ともすると危うい方向に向かってしまいそうになることがあります。そんな中、私たちの真の王は、主なる神であることを受け止めながら、なおさら主に心を静めて祈り、御心を求めることを丁寧にしていきたいと思わされます。

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