「エサウとヤコブの誕生」

創世記25:19-26

25:21には、イサクとリベカの間には中々子供ができなかったことが記されています。「子供ができない」という話を聞く時、思い浮かべるのはアブラハムとサラのことです。アブラハムとサラとの間にも長い間、子供ができませんでした。そのことのゆえに、アブラハムとサラは本当に苦しんだのです。イサクたちも同じだったのではないでしょうか。イサクにしても、リベカにしても、かつてアブラハムやサラが経験したような不安な思いや、悩みを通らされていたのではないかと思うのです。ですが、イサクはそのような状況の中で、「妻のために主に祈った」(25:21)と記されています。この記述を読みながら思いますのは、イサクが本日の箇所で、こんなふうに祈っていることの背後にはお父さん、お母さんのことがあったのではないかということです。イサクはお父さん、お母さんから自分がどんなふうに生まれてきたのか、何度となく聞いていたと思うのです。そんな中、イサクは祈ったのではないでしょうか。祈りながら、ああ、父さん、母さんも、かつて自分と同じような悩みや不安を経験してきたんだなということを改めて考えさせられたり、そんな父さん、母さんに働いてくださったんだなというふうに考えたりしたんじゃないかと思うのです。

 いずれにしても、イサクは子どもが与えられない状況で神様に祈りました。すると、神様はイサクの祈りに応えてくださり、リベカは身ごもります。しかし、身ごもった後、新たな問題が起こります。リベカのお腹の子どもが大きくなると、お腹で激しく動きまわり始めたのです。リベカにしてみれば、「このままどうなってしまうんだろう」と悩んでしまうほどでした。出産は今でも命がけですが、当時はなおさらのことだったのだと思います。リベカは子供ができない時も不安でしたが、身ごもった後も、全く別な悩みごとが沸き上がって来ました。出産を控えたリベカが、あれこれと心が不安でいっぱいになってしまっている…。こういう思いというのは、中々他の人には分かってもらえないようなことかも知れません。そして、そんなことを思えば思うほど、その後に書かれている、リベカが「主の御心を尋ねるために出かけた」という御言葉が心に留まります。不安や悩みで一杯の状況の中で、リベカがしたのは、神様に御心を尋ね求めるということでした。

本日の箇所で何より覚えていたいのは、このイサクとリベカの姿です。「子供ができない」という不安や悩みの中で、リベカのために主に祈った姿…。そして、妊娠中に思い悩みながら、神様の御心を尋ね求めようとした姿を覚えていたいと思うのです。私たちはこんな時、こんなふうに祈れるし、祈っていいのです。そして、実際に、このイサクの祈りを神様は聞き入れてくださったことだったり、リベカに具体的な御言葉で応えてくださったことを生きた証として受け止めていきたいと思います。神様はこんなふうに私たちに関わってくださるんだなということを覚えていたいと思うのです。そして、イサクにしても、リベカにしても、そのような信仰に生きた背後には、アブラハムやサラの信仰の証しがあったということも覚えていたいと思います。

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