本日のローズンゲンの御言葉です。

「わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。」箴言3:11

「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。」ヤコブ3:17

本日の御言葉には、次のように記されています。

「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。」

この御言葉は、ちょうど、今週の教会学校で皆さんと分かち合った箇所です。ヤコブ3章には「知恵」についてのことが書かれているのですが、私たちの知恵には「二つの知恵」があるんだということが書かれています。一つは、この世的な知恵です。ヤコブ3:14-15には次のように記されています。

「しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。」(3:14-15)

この御言葉にあるよつに、私たちは物事を上手くやろうと考えて、「内心ねたみ深く」なったり、「利己的」になったり、「自慢」ばかりするようになったり、「真理に逆らってうそをついたり」することがあります。しかし、そのような知恵というのは「地上のもの、この世のもの、悪魔から出たもの」なんだと語っています。これに対して「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。」(3:17)と語られています。この二つの知恵は、まさに私たちみんなの心に内在するものなのではないかと思います。そんな中、私たちもつい、ヤコブ3:14-15に記されているような思いに流されてしまいそうになることがあるかも知れないと思います。今週、日曜日に礼拝で分かち合ったイサクもそうでした。日曜日の礼拝で創世記26:1-14を取り上げましたが、この中で、イサクはうわべだけを繕い、何とかその場だけやり過ごそうとし、リベカを妹だと偽るのです。このことは、イサクにしてみれば「知恵」でした。しかし、そのような知恵というのは、まさにヤコブ3:14-15に記されているような知恵であり、そのことで大きな失敗をしてしまうのです。日曜日の礼拝では、何でイサクがそんなふうになってしまったのだろうということを分かちあいました。色々言えるかも知れませんが、何より、イサクはこの時、それまでのように神様を見上げられなくなってしまっていたのだろうと思います。その後、イサクは神様の取り扱いを受け、神様の恵みと憐れみの御業を経験していきます。そして、イサクはこの状況の中にも「神様が共にいてくださる」ということ、「神様が自分を見てくださっている」ということを学ぶのです。その後、イサクはまさにヤコブ3:17に記されているような歩みに導かれていくのです。そんなイサクが始めたのが、「その土地に穀物の種を蒔く」(創世記26:12)ということでした。ヤコブ3:18には「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです」(3:18)と書かれていますが、イサクは神様の取り扱いを受け、上よりの知恵に生かされる中で、「種を蒔く」働きに導かれていったのです。日曜日の教会学校では、そのようなことを分かちあいましたが、本日の御言葉を読みながら改めてそのことを思いました。この世の中には、時にヤコブ3:14-15のような知恵が満ちている現状があるかも知れません。私たち自身も時にそのような思いに流されそうになることがあるかも知れません。しかし、そんな中、私たちは神様を見上げながら、本当の知恵、上よりの知恵に生かされていけたらと思います。

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