本日のローズンゲンの御言葉です。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」創世記17:1
「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」マタイ5:16
本日、広島への原爆投下から76年となります。広島市の平和記念公園で平和記念式典が開かれました。あらゆる核兵器の開発や実験、使用などを禁じる初めての国際条約「核兵器禁止条約」が1月に発効して初めて迎えるこの日、参列者たちは、原爆投下時刻の午前8時15分に黙禱(もくとう)を捧げました。松井一実市長は平和宣言で、一刻も早く条約に参加するよう日本政府に求め、被爆から3年後に広島を訪れた、生まれつき目も耳も不自由だったヘレン・ケラー氏の「一人でできることは多くないが、皆一緒にやれば多くのことを成し遂げられる」との言葉を引用しました。今から8年前になりますが、私が姪浜教会に赴任する際、家族で福島から車でやって来る際、広島で一泊をしました。その時、広島に訪れたのであれば、ぜひ家族で行きたいと思い、平和記念資料館を訪れました。資料館の様々な資料から、原爆の恐ろしさをまざまざと知らされましたが、何より心に迫って来たのは、歴代の広島市長が世界中の核実験に対して出し続けた抗議文でした。その抗議文は500回以上なされていて、たとえ声が届かないように思えても諦めないで声を出し続ける広島の人たちの思いが迫ってくるように思いました。
本日の箇所には、次のように記されています。
「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
本日の箇所を読みながら、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」という言葉が心に留まりました。ここで言われている「光」とは何でしょうか。本日の箇所の直前には、次のようなことも語られています。
「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。」(マタイ5:14-15)
この御言葉を読む時、ここで言われている「光」とは、私たちが考えるような「光」とは違うのかも知れません。
普通の「光」であるなら、隠したり、升の下に置くようなものではないのだと思いますが、ここで言われている「光」は、誰にも気づかれぬように隠したり、升の下に置いておきたいと思ってしまうようなものなのです。最初からみんなに受け入れてもらえるようなものではないんじゃないかと思います。そのようなものを、イエス様は人々の前にきちんと掲げ、輝かせなさいと言われているのです。本日の箇所を読みながら、本日の「原爆の日」のことを思いました。先日、広島市長がIOCにオリンピック中、広島の原爆投下の時刻に黙とうをすることを求めたというニュースが出されました。残念ながら実現にはなりませんでしたが、この出来事を、升の下に置かず、皆の前に掲げることが本当の平和の灯を照らすことなんだという思いからの訴えなのだと思います。そんなことを思いながら、あの日見た抗議文も、「人々に真実の光を輝かせる業」なのではないかと思いました。いずれにしましても、「光を人々の前に輝かせる」ということは、人々から最初から賞賛されたり、受け入れられたりすることでもないのだと思います。時に煙たがられたり、反発されたりすることもあるかも知れません。しかし、それでも「真実の光」を掲げていく…。その中でやがて、その真実が明らかとなり、「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになる」ということがここで言われている「光を人々の前に輝かせる」ということなのではないかと思うのです。