本日のローズンゲンの御言葉です。

「主は恵みに満ち、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに富み/くだした災いを悔いられるからだ。」ヨエル2:13

「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。」1テサロニケ5:9

本日の箇所には次のように記されています。

「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。」

この御言葉を読みながら、「怒りに定められた」という言葉と、「救いにあずからせるように定められた」という言葉が心に留まりました。特にここに二度、「定められた」という言葉が使われていましたので、この言葉の意味について知りたいと思いました。そこでギリシア語の原文を見てみたところ、ここで二回語られている「定められた」という言葉は原文のギリシア語では違う言葉が使われていることが分かりました。

「怒りに定められた」というところで使われている「定められた」はギリシア語で「ティテーミ」という言葉が使われています。この言葉は「定める」という意味の他に、「置く」とか「設ける」とか「捨てる」という意味もあります。何かに見切りをつけて、「もういいや」とポーンと投げ捨ててしまうようなイメージでしょうか。

これに対して「救いにあずからせるように定められた」というところでは「ペリポイエーシス」という言葉が使われています。この言葉は「〜を越えて」という言葉と「造る」という言葉が合わさってできた合成語です。意味として、「定める」という意味の他に、「保存する」とか「所有する」とか「安全に保つ」という意味があります。本来、捨てられるはずだったかも知れないものを、それでも「いや駄目だ」と大切にとっておこうとするイメージでしょうか。それぞれ、そのようなイメージを思い浮かべる言葉が「定める」というところで使われているのです。

そんなふうに御言葉について調べてみながら、ふと思い出したのは、少し前に流行った「こんまり」さんの片づけ術のことを思い出しました。自分の持ち物一つ一つを手にとって、「ときめくもの」「ときめかないもの」の二つに分けて、一方を取っておき、一方を処分する方法です。処分することに決まった方が「ティテーミ」に表されるのかも知れませんし、大切に取っておくことに決まった方が「ペリポイエーシス」という言葉で表されるのかも知れません。

いずれにしましても、本日の箇所で言われていることは、私たち一人一人は決して、主に放っておかれたり、投げ捨てられてしまってはおらず、どんなことがあっても、大切な存在として大切に守られていることが言い表されているのだと思います。本来であるなら、怒りに任せて投げ捨てられても仕方ない存在かも知れません。しかし、そうではなく、それでもなお、私たちを大切に守り、私たちを救いへと導こうとされているのです。その主の取り扱いと導きを思いました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Translate »