「言の内に命が」

ヨハネによる福音書1:1-18

 先日、沖縄の実家でチューリップやユリの球根を植えました。春先には花を咲かせるのではないでしょうか。私は植物の種や、球根や、苗木がどんどん育っていく様子を見るのが好きです。同時に、その様子を見る時、「命がある」っていうのは、こういうことなんだと感じます。ヨハネ1:4には「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」と書かれています。「言に命がある」ということを考えながら、思い浮かべたのは、先ほどの球根の姿でした。土に植えられた球根や時が経つにつれて、次第次第に根を張り、芽を出し、大きく成長して花を咲かせたり、実りをもたらせていく…。そういう姿を思い浮かべました。そして、神様の御言葉も、そういう「命があるんだな」と思ったのです。実際、そうだと思います。私たちのうちに神様の御言葉が植えられる時、その御言葉は私たちの内で次第次第に成長していきます。そして、私たちの心の中に根を張り、芽を出し、やがて花を咲かせたり、実りをもたらせたりしていくのです。そんな命の出来事を起こしていくのが、神の御言葉なのだと思うのです。

 私が牧師として最初に赴任する時、ある先生から言われた言葉が忘れられません。その先生は「とにかく御言葉を語りなさい。そうすれば、そこに出来事が起こってくるんだよ。」とおっしゃっていました。それまで、神学校を出たばかりの自分に牧師として何ができるだろうと思っていましたが、その先生の言葉に自分のなすべき働きが定まったように思いました。本日の箇所で「御言葉には命がある」ということを思いながら、改めて、その先生の言葉を思い出しました。「御言葉を語る時にそこに出来事が起こされる」まさに御言葉は、私たちのうちに命の出来事を起こしていくのです。

1:4の御言葉でさらに注目したいことがあります。それは「ことば」について、「言葉」ではなく、「言」とだけ書かれていることです。このことは非常に大事な意味が含まれています。実際のギリシア語の原文を見ても、ここで「ことば」と表現されているところは単数形で語られているのです。そのことが意味しているのは、ここで言われている「ことば」とは、単なる「ことば」ではないということです。まことの神のことばとして、私たちのところに来てくださった「イエス・キリスト」を表しているのです。

 私たちに命を与え、そして、私たちを照らす光となる「ことば」、それは何より、イエス・キリストです。聖書には色々なメッセージがありますが、私たちが旧約聖書、新約聖書いずれを読むにしても、その中心にいつも見ていのは、このイエス・キリストです。私たちは、時に、この単数形の「ことば」の周りに、色々な余計な言葉を付けていってしまうことがないでしょうか。それらの言葉に引きずられて、一番中心にある「ことば」が見えなくなってしまったり、分からなってしまうということがないだろうかと思います。このことは自分自身、いつも反省させられることです。何より、イエス・キリストを通して、命の出来事は始まっていくのだということを覚えていたいと思います。

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