「さあ、ベテルに上り」
創世記35章1-5節
創世記34章に記されているシケムの出来事により、ヤコブたちは窮地に立たされてしまいました。そのような中にあって、神様がヤコブに対して「さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい」と語り、それに応えてヤコブたちが旅立ったというのが本日の記述です。ヤコブは、家族の者たちを始め、共に生活する者たちにベテルに上っていくに際し「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去りなさい」と語りました。この箇所を読みながら、改めて思うのは、ヤコブたちにとって、ベテルに上るということは「単なる移動」ということに留まらなかったんだなということです。ヤコブたちにとって、ベテルに上るということは、何より、神様に立ち帰ることでした。もう一度、神様との関係を一から立ち帰り、そこから歩み出すことを意味していました。ですから、ベテルに上るにあたって、すべきことがありました。自分たちを顧み、神様との関係を一から立ち帰っていくにあたって、自分たちの中に余計なものはないか、神様をまっすぐに見上げようとするものを妨げているものはないか、もしそのようなものがあるとするなら、自分を悔い改め、自分たちが身に着けている、それらのものを取り去っていかなければいけないと考えたのです。
ヤコブの言葉を受けて、ヤコブの家族の者たちや、ヤコブと共に生活する者たちは、ヤコブに持っていた外国のすべての神々と、着けていた耳飾りをヤコブに渡しました。そして、ヤコブはそれらをシケムの近くにある樫の木の下に埋めました。この箇所を読みながら、何より思うのは「彼らは未だにそんなものを持っていたんだな」ということです。創世記31:19には、ヤコブの妻であるラケルが、ラバンの家の守り神の像を盗んだとありますから、ラケルはあの時に守り神をまだ持っていたんだなと思います。しかし、そんなふうに外国の神々を差し出してきたのは、おそらくラケルだけではなかったのだと思います。ほかの家族も何かしらの形で、そのような神々を持っていたのです。ヤコブたちは、この時、すでに神様を見上げて歩んでいたはずでした。にもかかわらず、そんな彼らが、未だにこんなにもたくさんの外国の神々を身に着けて歩んでいたのです。
そして、それというのは、私たちも例外ではないかも知れないと思いました。私たちも時に、神様を見上げようとして踏み出しながら、いつの間にか、神様をまっすぐに見上げようとすることを妨げるような余計なものを身に着けていることってあるんじゃないだろうかと思ったりします。そんな中、本日のヤコブたちのように、にっちもさっちもいかなくなってしまってしまうようなことがあるかも知れないと思うのです。
そんなことを思いながら、本日の箇所を通して思うのは、神様がそんなヤコブたちにそれでも関わろうとしてくださったということです。そして、「さあ」と呼びかけてくださっていることです。私たちも自分たちの愚かさ、過ちのゆえに、どうにもならない状況に至っている時、それでも神様は私たちを見捨てることなく、そんな私たちに「さあ」と呼びかけてくださっています。そして、信仰をもって応えていこうとする私たちをそこから救い出してくださるのです。