「隠された意味」

創世記40章1-5節

本日の箇所には、ファラオの給仕役と料理役がそれぞれの夢を見て、その夢に「それぞれ意味が隠されていた」(40:5)と記されています。「それぞれ意味が隠されていた」のは、給仕役と料理役が見た「夢」の話に限ったことなのでしょうか。ヨセフのこれまでの歩みや、そこで経験した一つ一つの出来事もそうだったのではないでしょうか。それら一つ一つにもそれぞれ意味が隠されていて、そのことが明らかにされていったのが、この創世記40章の出来事なのではないかと思うのです。ヨセフが、兄弟たちからひどい目に遭わされ、エジプトに奴隷として連れてこられたこと、エジプトに連れて来られた後にポティファルの妻から言いがかりをつけられ、牢獄に入れられてしまったこと、それらのことにも意味が隠されていました。そのことだけを見ると、分からないのだと思います。「なんでこんなことになってしまったの?」としか思えないのではないでしょうか。しかしながら、それら一つ一つには、私たち人間の思いをはるかに超えた意味がそれぞれ隠されていたのです。

そして、そんなことを思いながら、改めて、「ああ、神様はちゃんとヨセフのこと、ヨセフの歩みのことを考えてくださっていたんだな」ということを思いました。これまでのヨセフの歩みは「何で?」と思ってしまうようなことばかりでした。しかし、改めて、その一つ一つに神様の意味が隠されていて、神様はヨセフの思いを超えた形でヨセフを導いてくださっていたんだということを思うのです。そんなことを思いながら、「ああ、神様はちゃんとヨセフのことを、ヨセフの歩みのことを考えてくださっていたんだ」と思うのです。

本日の箇所から、何より覚えていたいと思ったのは、このことです。本日の箇所で、ヨセフを取り扱ってくださったように、神様は私たち一人一人をも取り扱ってくださっているのだということを覚えていたいと思います。私は時々に「心配」という言葉について考えることがあります。「心配」という言葉は、ネガティブな表現の中で「心配」という言葉が使われることが多いのではないでしょうか。しかし、私は「心配」という言葉は、本来は素敵な言葉なのではないかと思っています。心配とは「心を配る」と書きます。私たちが何かに対して「心を配る」ということは素晴らしいことなのではないでしょうか。私たちがものごとに対して無関心であるなら、心配なんてしないのだと思います。私たちがそれを大切に思っているから、心配するのだと思うのです。それゆえ、心配というのは、基本、思いやりだったり、優しさだったり、物事ときちんと向きあおうとする誠実さから生まれてくるものなのではないかと思います。それは素晴らしいことですし、大事なことなのではないでしょうか。しかしながら、私たちが「心配」ということを考える時、何より忘れないでいたいことがあります。それは、私たちがあれこれと色々なことを心配する以上に、すでに神様が心配してくださっているということです。神様が私たちに先立って思いやってくださっているのです。私たちがあれこれ考える以上に神様が考えてくださっているのです。そのことを忘れないでいたいと思うのです。そして、その神様に信頼していきたいと思うのです。

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