「神が示されたからには」

創世記41章37-44節

本日の箇所には、ヨセフがエジプトの王ファラオから名指しで、「エジプトの宰相になるように」と命じられた箇所です。宰相というのはエジプトの王様のファラオの次ぐナンバー2の立場で、今で言うなら総理大臣のような立場になります。ヨセフはそれまで奴隷の身分でした。しかも、この時ヨセフは牢獄に捕らえられていました。そんなヨセフが一日にして、エジプトの総理大臣のような立場に引き上げられたのです。

41:37には、「ファラオと家来たちは皆、ヨセフの言葉に感心した」(41:37)と記されています。彼らはヨセフが、ファラオの夢を解き明かしている様子だったり、来るべき飢饉に対する備えについての話だったりを聞きながら、ヨセフの聡明さや賢さ、知恵のある言葉にすっかり感心したのでした。しかし、ファラオにしても、家来たちにしても、単に、ヨセフが賢くて、聡明で知恵がある人だからということだけで、ヨセフをこれほどの地位に着けようとしたわけではないのだとも思います。ファラオは、ヨセフについて「このように神の霊が宿っている人はほかにあるだろうか」(41:38)と語りました。ファラオはヨセフの言葉を聞きながら、様々なことを語る背後に神様がおられるということを感じました。ファラオはそのように、ヨセフには確かに神様の霊が宿っている、ヨセフの背後には神様がおられる、ということを感じながら、「神がそういうことをみな示されたからには」と語りました。ファラオはヨセフの言葉の背後に神様を感じていました。それゆえヨセフに働きを託そうと考えたのです。

その様子を見ながら、神様が用いようとされている人ってこういう人なんだなと思います。旧約聖書に記されているモーセについて、ムーディという人が語った言葉があります。

「モーセの生涯は、最初の40年、彼は自分が大した人物、何事かを成し遂げることができる人物だと考えてきた(Something)。けれどもその次の40年間は、自分は何者でもないことを知るに至った(Nothing)。そして最後の40年は、何者でもない自分(Nothing)を神様が捕らえて用いてくださるならば、すべてをなすことができると知る人生を生きた(Everything)」。

ヨセフもそうだったのではないでしょうか。ヨセフは最初、ヤコブの家で何不自由ない生活を送っていました。しかもヨセフはその家の中で特別扱いを受けていました。そんな毎日の中でヨセフは自分が「Something」と感じていたんじゃないかと思います。しかしヨセフはエジプトに奴隷として売られ、さらに牢獄に捕らえられていきます。その日々に自分の無力さや限界というものを痛感したのだと思います。まさに自分が「Nothing」であることを突き付けられていたのだと思うのです。しかし、そんなヨセフが、本日の箇所で思いもよらない形でファラオに召し出され、特別な働きを託されていきながら、神様の驚くべき導きを経験しました。自分は「Nothing」だけれど、神様が働いてくださるなら、こんな自分でも「Everything」のことをなすことができるという歩みに生かされたのだと思うのです。

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