「お前たちを試すことにする」

創世記42章10-17節

本日の箇所には、ヨセフは兄たちに自分であることを隠したまま、接していきます。そして、兄たちを「お前たちは回し者だ」と決めつけてしまうのです。もちろんこの時ヨセフは兄たちのことを外国からの回し者だとは本気で考えていなかったと思います。しかしその一方で、兄たちのことを、まるで「スパイ」のように表向きはいい顔をしていても、本当のところ、腹の中では何を考えているのか分からない…。そういうふうに見ていたのではないかと思います。実際、ヨセフは兄たちのことをそう思って仕方ないような経験をさせられてきました。ヨセフはかつて、兄たちに本当に酷い目に遭わされてきました。一方的な妬みいから、突然、乱暴をされ、穴に入れられ、エジプトに奴隷として売り飛ばされることになったのです。そんな経験をさせられてきたヨセフにしてみれば、兄たちのことを信用することなどできなかったのではないでしょうか。表向きはうまいことを言っていても、腹の中で何を考えているのか分からない…。そんな思いで受け止めていたのではないかと思うのです。

ヨセフが本日の箇所で兄たちに厳しい態度で接していることに対して「兄たちが憎くてそうしたのだろうか?」と考えたりします。しかし、私はそうじゃないんじゃないかと思っています。本日の箇所の少し前の42:9には、ヨセフが兄たちと再会をした時、兄たちが自分に対してひれ伏している姿を見て、かつて兄たちについてみた夢を思い起こしたと書かれています。ヨセフは自分がエジプトに来たこと、そして、兄たちとこういう形で再会するようになったこと、その全てが神様の取り扱いであるんだということを理解していました。すべてが自分たちの思いを越えた神の業が実現したことなんだと悟ったのです。その中で、ヨセフの心は、すでに兄たちへの怒りや憎しみは取り扱われていたのだとも思います。そのように考える時、兄たちが憎いからという理由で、こういう仕打ちをしたわけではないのだと思います。ただだからと言って、そのまま兄たちを受け入れることができなかったというところもあったのだと思います。ヨセフとすれば、兄たちが本当のところ、腹の中に何を考えているのか分からないというところがあったのだと思うのです。兄たちがこの数年間、何を考え、どう思って生きてきたのか分かりませんでした。そんな兄たちのことをすぐには信頼できなかったのだと思いますし、兄たちのことを知る必要があると考えたのだと思うのです。

本日の箇所を読みながら、「赦す」「和解する」ということについて考えさせられます。それというのは単に相手に対して感情的に怒ることや憎むことを止めるということだけではないんだと思います。たとえ、感情の思いとしては、すでに、怒ってもいないし、憎んでもいなかったとしても、それで本当に目の前のその人と和解し、以前のように関係を回復することができるのかと言えば、中々そういかないのだと思います。以前のように信頼できるかと言えば、そこには、お互いを隔てている壁があったりするのです。そのような関係を本当の意味で回復させるのではあれば、きちんとしたプロセスを通りながら、一つ一つ、もう一度一から積み上げていくようにして建てあげていかなければならないのだと思うのです。

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