「自分たちの身に起こったこと」

創世記42章29-35節


エジプトに出かけていたヨセフの兄たちは、父の待つカナンの地に帰ってきました。そして、自分たちの身に起こったこととして「あの国の主君である人が、我々を厳しい口調で問い詰めて、この国を探りに来た回し者にちがいないと言うのです。もちろん、我々は正直な人間で、決して回し者などではないと答えました。我々が十二人兄弟で、一人の父の息子であり、一人は失いましたが、末の弟は今、カナンの地方に住む父のもとにいますと言ったところ、あの国の主君である人が言いました。『では、お前たちが本当に正直な人間かどうかを、こうして確かめることにする。お前たち兄弟のうち、一人だけここに残し、飢えているお前たちの家族のために、穀物を持ち帰るがいい。ただし、末の弟を必ずここへ連れて来るのだ。そうすれば、お前たちが回し者ではなく、正直な人間であることが分かるから、お前たちに兄弟を返し、自由にこの国に出入りできるようにしてやろう。』」(42:30-34)ということを父に報告しました。彼らが経験したことは、まさにこの言葉の通りでした。兄たちからすれば、エジプトで厳しい行政官に出会い、理不尽な言いがかりをつけられ、散々酷い目に遭ってきた…。そういう思いだったと思います。しかし、実際にはどうだったのでしょう。兄たちの知らないところで、全く別のストーリーが展開していました。兄たちの前に立ちはだかった行政官は、兄たちのことなど何も知らずに身勝手なことをあれこれ言っていたのではありません。そこにいたのは弟のヨセフでした。兄たちにしてみれば、ヨセフの振る舞いは終始、理解できなかったですし、「自分たちのことなんか何も知らないで」という思いで受け止めていたのかも知れません。しかし、ヨセフは、兄たちのことをちゃんと分かった上で、むしろ、分かっているからこそ、そのように振舞っていたのです。
そのように、ヨセフの振る舞いは、その一つ一つが、兄たちのことをよくよく思いやり、兄たちの問題も見抜いた上での振る舞いでした。その振る舞いは表面的には厳しく見えたかも知れません。しかし、その背後で、ヨセフは本当に色々な思いを通らされていました。兄たちと関わりながら、色々な思いが湧き上がってきて、それらの思いと格闘するような思いで関わっていたのだと思います。実際、余りに思いがこみ上げてきて、兄たちに隠れて、ヨセフが泣いたということも書かれています。いずれにしましても、ヨセフは兄たちの知らないところで、色々な思いを通らされながら、その思いを必死になってこらえながら、兄たちと向き合い続けていたのでした。
そんなふうに、兄たちが知らないところで、兄たちには全く分からない、思いもよらないストーリーが展開されていました。そして、それというのは、私たちの日々の歩みでも起こり得ることであるかも知れないと思います。日々の歩みの中で、私たちが思ったり、考えたりしていること…。私たちからすれば、そんなふうにしか思えないのですが、実は私たちの気づかないところで、私たちの知らない別のストーリーが展開されているということがあるのではないでしょうか。

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