本日のローズンゲンの御言葉です。

「主よ、御もとに立ち帰らせてください/わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして/昔のようにしてください。」哀歌5:21

「わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。」テトス3:4-5

本日の箇所には、次のように記されています。

「主よ、御もとに立ち帰らせてください/わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして/昔のようにしてください。」

本日の箇所を読みながら、「主よ、御もとに立ち帰らせてください」との言葉が心に留まりました。そして、改めて、「立ち帰る」ということ、「悔い改める」ということについて考えさせられました。「立ち帰る」ということ、「悔い改める」ということは、ただ闇雲に自分を卑下したり、自暴自棄になることではないのだと思います。何よりも、自分自身を正しく認識することなのだと思います。言うなれば、「自分の現在地」を知ることです。私たちがこれまで、どのような歩みをたどってきたのか、どのような経緯をたどって今の状態に至っているのか、ここまでの歩みを振り返って見えてきた課題とは何か、偽りやごまかしのない眼差しで見つめながら、私たちの歴史を正しく知り、今の自分たちが立っている「現在地」を見ていこうとすることが、本当の意味での「悔い改め」であり、「立ち帰る」ということなのだと思います。私たちは、時に、「悔い改め」ということが何か、自分のこれまでの一切が否定されてしまったかのように感じてしまうことがあります。そうすると、どうしても「悔い改め」を受け入れらず、心を頑なにさせてしまったり、逆に反省する中で、どんどん自暴自棄の思いになってしまったりすることがあります。

しかしそうではなく、何よりもまず、私たちをすでに一方的に愛し、赦してくださっている神様を見上げていきたいと思います。その恵みに生かされていることを心に刻んでいきたいと思うのです。その上で自分自身、立ち止まって、自分の「現在地」を冷静に確認していけたらと思います。そして、自分のこれまでの歩みの中で間違っていること、軌道修正すべきことがあるとするなら、そこから方向転換をしていくことができたらと思うのです。それが本当の意味での「回心(まわる心としてのかいしん)」となっていくのだと思います。 

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