「いや、この子だけは」
創世記42章36-38節
本日の箇所で、ヨセフの兄たちは、エジプトに再び行こうと考えていきました。その際、末の弟であるベニヤミンを連れていこうとします。前回、エジプトに行った際、スパイの容疑をかけられ、その疑いを晴らすためには自分たちの話が本当であることを表す必要がありました。それは「自分たちには末の弟がいます」と話したことを実証することでした。このため、ヨセフの兄たちはエジプトにベニヤミンを連れていかなければならなかったのです。しかし、ヤコブは、それに猛反対をします。ヤコブにしてみれば、不安で仕方なかったのだと思います。エジプトで全くの言いがかりによって、息子たちがスパイ扱いをされ、シメオンが捕らえられてしまう…。ベニヤミンを連れて行ったところで同じことになってしまうかも知れませんでした。そんなことを思う時、とてもベニヤミンを連れていくことを認めるわけにはいかず、「いや、この子だけは」という思いになってしまったのです。
本日の箇所を読みながら、ヤコブの必死の思いがひしひしと伝わってきます。ヤコブにとって、ベニヤミンはかけがえのない存在でした。そんなヤコブの思いはよく理解できるように思います。しかし、そういうヤコブの思いや、態度が、これまでずっと問題だったんじゃないでしょうか。ヤコブは、ラケルの息子ヨセフをかけがえのない存在として、あらさまに特別扱いしてきました。そのことがヤコブの家族関係に大きな溝を生んでいたのです。ヨセフの兄弟たちはそのことが納得いかず、深く傷ついていたのです。今回、ベニヤミンのことをヤコブが特別扱いしていることに対して、兄弟たちは感情的になってはいません。それはかつてのことがあったからなのだと思います。かつて、兄たちは、ヤコブがヨセフを特別扱いしたことで、ヨセフを恨み、ヨセフに酷いことをしました。しかし、そのことは兄たちとしてはずっと、負い目や後悔として残っていました。ですから、ベニヤミンがヤコブから特別扱いされても、以前のように感情的にはなっていません。しかし、「もう仕方ない」「受け入れるしかない」という思いで見つめながらも、本音としては、やっぱり父の振る舞いに傷ついていたり、寂しい思いにさせられていたのではないでしょうか。
そんなふうに、本日のヤコブの姿を見ながら、よく「分かるな」と思いつつ、「でも、このままじゃダメだよな」と思ったりします。このままでは、ヤコブたちは一歩踏み出すことができませんでしたし、ヤコブの家族の中の根本の問題は解決しないままでした。ヤコブは事柄を神様に委ねる必要がありました。そして、そんなヤコブのことを考えながら、私たち自身も同じように問われていることがあるかも知れないと思うのです。私たちは誰しも自分の中に大切なものを抱えているのだと思います。固執するものがあるのではないでしょうか。それは当たり前だと思いますし、そういうことがあるから頑張れるということがあると思います。しかしそれを自分一人で抱えずに、時に、神様に明け渡しつつ、委ねつつ、歩んでいくことができたらと思います。そんな歩みから始まることがあるのではないでしょうか。そこから目の前の事柄への向き合い方が変わるということがあるのだと思います。