「ヨセフの食卓を味わう」

創世記43章26-34節

本日の箇所には、ヨセフの兄たちが、ヨセフの屋敷で、ヨセフと一緒に食事をしたと様子が記されています。まずその最初に、ヨセフの兄たちは、ヨセフの屋敷で、屋敷の主人であるヨセフが帰ってくるのを待っていました。この間、兄たちは本当にドキドキだったのではないでしょうか。兄たちはこの時、まだヨセフの正体を知りませんでした。エジプトの行政官だとしか思っていなかったのです。この行政官は、これまで自分たちに散々厳しいことを言ったり、理不尽なことを要求してきました。そんな行政官にいきなり屋敷に呼ばれたわけですから、不安で仕方なかったと思います。食事に招待されたけど、何でなのか、分からなかったと思いますし、裏があるんじゃないかと勘繰ったりしたのだと思います。そんな兄たちのところに、いよいよ、ヨセフがやって来たのです。43:26-26を読みますと、ほんの短い三節の間に、二度も兄たちが「ヨセフを拝した」と記しています。この記述からも、兄たちがどんなに緊張していたのか、うかがい知ることができるのではないでしょうか。いずれにしても、兄たちは散々、緊張しながらヨセフを待っていたのだと思いますが、ヨセフと対面し、ようやく不安の思いから解放されたのだと思います。そうして、ヨセフとの食事会が始まったのでした。ここでどんな料理が出たのか、何を食べたのかは書かれていません。ですが、ヨセフは、この時、エジプトの国で王の次に高い地位にいた人でした。その人の屋敷で振舞われた料理ですから、豪華なものだったのではないでしょうか。カナンの地で遊牧生活をしていた兄たちなど、見たことも、食べたこともない料理が出てきたのではないかと想像します。加えて、この時は飢饉の最中でした。兄たちは長い間、満足にお腹いっぱい食べるということもできなかったのではないでしょうか。そんな兄たちにしてみれば、本当に夢のような時間だったのではないでしょうか。
本日の箇所には、そのように、ヨセフの兄たちが、ヨセフの屋敷で思う存分、美味しいものを食べたり、飲んだりした様子が記されています。本当に素晴らしい時間だったと思いますし、喜びの時だったのだと思います。しかしながら、本日の箇所で、誰よりもこの食事を喜んでいたのは、他ならぬヨセフだったのではないかと思います。ヨセフにとっての喜びは、単に美味しいものを一杯に食べるということではありませんでした。食事に関して言えば、いつも食べているものですから、それほど感動はなかったかも知れません。しかしながら、ヨセフは、兄たちに優る喜びを感じていたのではないでしょうか。本日は、この「ヨセフの食卓」について考えてみたいと思います。この食卓では、そこにいたみんなが、喜んでいました。楽しんでいました。しかし、ヨセフは他の者たちとは全く違う、喜び、それよりはるかに豊かな喜びを味わっていました。私たちにもそういうことってあるんじゃないでしょうか。同じ場所で同じものを共有し、同じ恵みに与っていても、与る人によって、全く違う喜びや恵みに与ることができることがあるんじゃないかと思うのです。色々なことが言えるかも知れませんが、「主の晩餐」などもまさにそうなのではないかと思います。

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