本日のローズンゲンの御言葉です。

「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/『御顔こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ。」詩編42:12

「このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており、」Ⅱコリント3:12

本日、12月28日の祈祷会で詩篇3篇を分かちあいました。詩編3編の冒頭には「賛歌。ダビデの詩。ダビデがその子/アブサロムを逃れたとき」と書かれています。イスラエルの王ダビデの時代に起こったアブサロムによるクーデターが、本日の詩編の背景となっています。その苦しみ、悩みの中で、うたわれた詩編が詩篇3篇です。その中で、特に心に残るのが、詩篇3:4です。

「主よ、それでも/あなたはわたしの盾、わたしの栄え/わたしの頭を高くあげてくださる方。」(詩編3:4)

ダビデは、苦しみ、悩みの中、「主よ、それでも」と語りました。ダビデはこの状況の中で、それでも主を見上げ、主に信頼し、全てを主に明け渡したのです。この詩編3:4の御言葉は、加織の父の愛唱聖句です。義父がバプテスマを受ける時の信仰告白でも読んだ聖書の御言葉でした。信仰告白の中で、義父は「娘たちの姿を見ながら色々なことを考えさせられた」と話していました。

「娘たちの姿を見ていると、信仰を持って生きるとはこういうことなんだと思う。少々のことが起きても動じない生き方をしているように見えるし、神様を信じていることの安定した歩みをしているように思う。それは、それまで自分が考えてきた世の常識ではかる安定ではないんだなと思った。そういう思いの中で、聖書に惹かれ、やがてバプテスマを受けるに至った」

義父の信仰告白を聞きながら、改めて、私たちの信仰がここにあるのだと思いました。本日の御言葉には、次のように記されています。

「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。」

この御言葉を読みながら、本日の祈祷会で分かち合った詩篇3篇の御言葉を思い出しました。改めて、私たちの信仰は、私たちが悩み、苦しみ、呻きの中にある中で、「それでも」「なお」と告白できる信仰なのだと思わされました。共にその信仰に生かされていきたいと思います。 

鈴木牧人

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