「広げよう、主の天幕を」
イザヤ書54章2-3節
本日の御言葉には神様から「新たな広がりに生きるように」とのチャレンジが語られています。実際、これまで多くの人たちが、イザヤ54:2-3の御言葉を通して、神様からのチャレンジを受け、新しい広がりに踏み出そうとしていきました。有名なのは、ウィリアム・ケアリです。この人は、イギリスのバプテスト教会の牧師ですが、人々を世界宣教へ奮い立たせていった人です。「近代海外宣教の父」と呼ばれています。このウィリアム・ケアリが人々に語ったのが、イザヤ54:2-3の御言葉でした。
本日の御言葉を読む時、心に迫ってくるのが「荒れ果てた町々には再び人が住む」という言葉です。何というのでしょう。私たちの現実は、どんどん荒れ果てた町々のようになっているのではないでしょうか。見た目、立派に見えたとしても、心は疲弊していたり、荒んでいたりしているのではないかと思うのです。そんな中、私たちがこの地域の痛んでいる人や困窮している人に対して、何かしら、私たちができる働きをしていく…。そのようにして、荒れ果てた世界が、神様の恵みの御手、癒しの御手で覆われていくような、そのような御業がなされていくよう努めていく…。幕屋を広くするという時、そういうイメージで受け止めることもできるのではないかと思います。本日の招きの言葉に、マタイ25:40の御言葉をお読みしました。「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」(マタイ25:40)
この御言葉は、マタイ25:31-46で語られたイエス様のたとえの中の一節です。私は、この箇所を読む時に思うことがあります。それは、ここでイエス様が「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませてくれた」と言われている人たちはおそらく、自分たちがそんなふうにイエス様に対して食べさせたり、飲ませたりしているなんて思いもよらなかったんだろうということです。ですから、イエス様からそんなふうに言われてびっくりしてしまったのではないでしょうか。正直、状況としては手探りで、自分たちが何をすればいいのかも、何が正解なのかも分からない中で、とにかく、その都度、その都度、祈りの中で示されたこと、御言葉で示されたことに必死になってしていたのだと思います。そして、それというのが、実際の私たちの歩みなのではないでしょうか。私たちは最初からこうすれば正解、こうすれば間違いない、こうすれば神様喜んでくださる、そういうことが分かっていればいいのですが、実際の歩みでは、手探りで「ああでもない」「こうでもない」と悩みながら、祈りつつ、御言葉に聞きながら、目の前に出会う人たち一人一人と丁寧に出会っていく…。そういう積み重ねの中に主が働いてくださるということの方が多いのではないでしょうか。出会いを与えてくださるのは、主です。出来事を起こしてくださるのも、主です。そのことに信頼しながら、私たちなりの信仰で主の招きに応え、踏み出そうとしていく時、そこに主の御業が起されていくのです。神の幕屋はそのようにして広がっていくのだと思うのです。