「銀の杯」

創世記44章1-13節

本日の箇所に記されている「銀の杯」の出来事は、どういう出来事だったのでしょう。整理して考えてみたいと思います。兄たちにとって、この「銀の杯」の出来事は、喜ばしい経験ではありませんでした。むしろ、「何で?」という思いにさせられる出来事でした。しかし、この出来事を通して、兄たちは自分たちの心の中にあるものが露わにされていくのです。それまで兄たちが心に秘めてきた思い、罪の思いやそのことの後悔のそこで露わにされていくのですが、同時に、ベニヤミンに対する愛情も、この「銀の杯」の出来事を通して、露わにされていくのです。そして、そのような出来事の先に、兄たちはヨセフとの和解を経験していくのです。そして、救いを経験するのです。それがこの「銀の杯」の出来事でした。ヨセフにしても、本当でしたら、こんなことしたくなかったのだと思いました。こんなことをすれば、兄たちを苦しめてしまうことが分かっていました。それだけではなく、ヨセフにとって、かけがえのない存在であるベニヤミンを苦しめてしまうことも分かっていました。ですから、本当のことを言えば、兄たちやベニヤミンと一緒に食事をし、楽しい時間を過ごし、そのまま分かれて、それで終わりたかったのではないかと思います。けれど、兄たちと本当の関係を築いていくためには、ヨセフとしては、もっと一歩踏み込んでいかなければなりませんでした。兄たちの心の中にあるものを明らかにし、本当の関係を建てあげていくためのどうしても必要な出来事だったのです。それがこの「銀の杯」の出来事でした。さらに考えてみたいと思います。本来、この「銀の杯」は、かつて取り返しのつかない罪を犯した兄たちを試すため、心の中にあるものを明らかにするためでした。本当なら、兄たちが銀の杯を盗んだというふうに言われなければならなかったのではないでしょうか。ここで問われていたのは、兄たちの問題だったからです。しかしながら、そのために、銀の杯を盗んだとの言いがかりをつけられたのはベニヤミンでした。本来、何も罪を犯していなかったはずの無実の弟が罪をなすりつけられたのです。それが、この「銀の杯」の出来事でした。
そんなふうに、この「銀の杯」の出来事について、それぞれ、兄たちの視点から、ヨセフの視点から、ベニヤミンの視点から整理しながら、考えてみる時に、この「銀の杯」の出来事が一体、何なのか、何を表しているのか、心に迫ってきます。私は、この「銀の杯」の出来事の先に、イエス・キリストの十字架の出来事を透かしてみるように思うのです。イエス・キリストの十字架というのは、私たちにとって喜ばしい出来事ではなく、心引き裂かれる出来事でした。しかしその出来事を通して、私たちは私たちの心の中にあるものが浮き彫りにされていきました。私たちの心に秘めた思いを露わにされていったのです。そして、その経験の先に、私たちは神との和解を経験し、救いを経験していったのです。そして、その十字架の出来事の中で、罪を問われたのは、イエス・キリストでした。本来、罪を問われるべきだったのは、私たちのはずでした。しかし、神は私たちが引き受けなければならない罪を、無実の方である神の独り子イエス・キリストの負わせたのです。

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