「安心して帰るがよい」
創世記44章14-17節
ヨセフの屋敷で食事をしたヨセフの兄弟たちは、思う存分飲み食いし、すっかり満足し、家に帰ろうとしました。すると、「待て」と呼び止められ、「お前たちは銀の杯を盗んだんじゃないか」と言われてしまうのです。兄たちは全く身に覚えがないことでしたが、調べてみると、末の弟であるベニヤミンの袋から銀の杯が出てきました。実際に杯が見つかった以上、何も言い逃れできません。そのままヨセフの屋敷に戻ることになったのです。
本日の箇所で、ユダはヨセフに対し、「ベニヤミンだけではなく、兄弟みんなが奴隷になります」と言いました。しかし、これに対して、ヨセフは「そんなことは全く考えていない。ただ、杯を見つけられた者だけが、わたしの奴隷になればよい。ほかのお前たちは皆、安心して父親のもとへ帰るがよい」(44:17)と言うのです。このヨセフの言葉は、兄たちにとっては、心揺さぶる言葉だったのではないでしょうか。問題をベニヤミンだけのせいにして、「行政官がそう言ったんだから」と言って自分たちはカナンに帰ってしまうことができたのです。しかし、ユダはそうしませんでした。ユダはそれでも食い下がって、何とかベニヤミンを解放しようと、自分が代わりに奴隷になりますと語ったのです。その時のユダの中にはどんな思いがあったのでしょう。色々なことが言えるかも知れません。ただ、思うことがあります。それは、これまで兄たちは実際にそんなことをしてきたんじゃないかということです。ヨセフの時、まさにそうしたのではないでしょうか。ベニヤミンの兄であるヨセフに対しては、そんなふうに見捨ててきました。むしろ、ヨセフに散々酷いことをし、その後は、自分たちは何も知らないという顔をし続けてきたのです。あの時はそうしたのですから、今回もそうすることだってあったのだと思います。ただ、だからこそ思うことがあったのだとも思います。あの時、兄たちはそんなふうにしたからこそ、身に染みて感じてきたことがあったのではないでしょうか。「自分たちには関係ない」と言って、まるで問題などなかったような顔をして生きていこうとしても、はたして、本当に、安心して、やっていけるのかと言えば、表向き、何食わぬ顔で過ごすことができたとしても、心の中にはずっと何かを抱え込んで生きていかなければならない…。そのことを身に染みて、感じてきたのではないかと思うのです。ですから、「ベニヤミンだけここに置いて、お前たちは安心して帰るがよい」と言われても、「はい分かりました」とは言えなかったのだと思います。今、ここで帰ったところで、安心して過ごすなんかできなかったのだと思うのです。
しかし、そんなユダが本当の意味で「安心して帰る」ことができる道があったのだと思います。それは、ユダが神様の取り扱いの中で、罪を取り扱われ、赦しと和解を経験することでした。その時、ユダは本当の意味で「安心して帰る」ことができたのです。実際、ユダはこの後、そのような赦しと和解を経験させられていったのでした。そのことを思う時、ユダの苦悩と、その後に経験する赦しと和解、そして、平和に、私たちは、イエス・キリストの十字架の救いが透かして見えてくるのではないかと思います。