「悔やんだり、責め合ったりする必要はありません」
創世記45:4-15
ヨセフは兄たちに対して「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです」と語った後、「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません」と告げました。このヨセフの言葉は、兄たちにとって、本当に救われる思いがする言葉だったのではないかと思います。本来であるなら、兄たちとすれば、とてもヨセフとまともに顔を見合わすこともできなかったのだろうと思いますし、自分たちとしても、とても前を向いて、進めなかったのではないかと思うのです。
本日の箇所でヨセフは「自分がエジプトに来ることになったのは、神様の計画なんだ」ということも語っています。兄たちがヨセフに対してしてきた酷い行ない…。そんな彼らのしてきたことをはるかに超えて、神様が生きて働き、ここまで導いてこられた…。そして、彼らのしてきたことさえ、神様は用いてくださったんだ…。だから、今はもう、自分たちのしてきてことを悔やんだり、責めたりしなくていいんです…。ヨセフはそのように語っているのです。このことが印象深く思います。私は自分自身のことを思う時、そんなふうに悔やんでいたり、誰かを責めていたり、そういう思いに囚われてしまっている時というのは、結局、人しか見ていないのかも知れないなと思います。自分を見ているか、周りの誰かを見ているか、それは、その時々ですが、人ばかり見ている、人しか見ていないのです。そんな中、やるせない思いをそこにぶつけていたりする自分がいるのではないかと思いました。そんなことを思いながら、改めて、そういう思いから解放されることが大事なんだなと思いました。人ばかり見て、あれこれ考える思いを少し置いて、そういう私たちの間に働き、私たちの思いを越えて、私たちの歩みを取り扱ってくださっている主を見上げようとしていく時、私たちはそれまでと違い視点が与えられていくということがあるのではないでしょうか。そのことで、心が軽くなることもありますし、安心もできるということがあるのだと思います。そして、それまでの、悔やんだり、責め合っていたりする思いからも解放されるということがあるのです。その時、それまでとは違った思いで、前を向いて、新しい一歩進み出ることができる…。そのようなことがあるのではないでしょうか。
私たちもヨセフの兄たちと同様にこれまでの歩みの中で悔やんだり、責め合ったりする思いに閉じこもり、前を向けないということがあったりするかも知れません。そんな私たちは、心解き放たれ、新しい思いで、一歩を踏み出していく歩みへと招かれています。それができるのは、私たちがイエス・キリストに出会ったからです。そして、イエス・キリストの言葉を聞いたからです。そして、イエス・キリストを通してなされた神の救いの御業を知ったからです。そのことを心に刻んでいるがゆえに、そのことを信じるがゆえに、私たちはもはや「悔やんだり、責め合ったりする必要はないんです」との信仰に生きることができるのです。時に、人ばかりを見て、それで右往左往している私たちが、その主を見上げることによって、悔やんだり、責め合っていたり、そういう思いから解放されていくのです。