「ヨセフにどうしても会いたい」
創世記45章16-28節
ある先生が以前「神様の御業というのは、写真のネガのようなものなんです」とおっしゃっていました。写真のネガと言われても、ピンと来ない人もいるかも知れません。以前は、写真を撮るためにカメラにフィルムを入れて、写真を撮り、そのフィルムをカメラ屋に持って行き、ネガにしてもらい、写真にしてもらっていました。写真のネガというのはご存じの方はよくお分かりだと思いますが、実際に写した色と正反対の色が出ます。暗い部分が明るく、明るい部分が暗くなるのです。神様が、私たちになさることもそういうことがあって、時に私たちには理解できないこともあったり、目の前の出来事が、喜びも望みもないような出来事に思えてしまうのですが、実はその出来事を通して、神様は私たちの思いをはるかに超えた御業を始めてくださる…。そして、私たちの思いを越えた恵み、喜びの出来事を起こしてくださるんだ…。それが神様の御業なんだとその先生はおっしゃっていました。
本日の箇所で、ヤコブは、息子たちから「ヨセフが生きている」ということを聞きました。その知らせにヤコブは余りの驚きに気が遠くなってしまったというのです。無理もないと思います。ヤコブはそれまでヨセフが死んだと思っていたのです。ヨセフは、ヤコブにとって何よりかけがえのない息子でした。ヨセフを余りに大事にするので、他の兄たちはヨセフに対して妬んだほどでした。そのヨセフがある時からいなくなってしまいました。兄たちからの報告を聞く限り、ヨセフはおそらく野獣に襲われて、死んでしまいました。ヤコブはずっとそう思ってきました。そのヨセフがまだ生きている…。しかも、エジプトで、エジプト全国を治める者とさえなっている…。ヤコブにしてみれば、とても信じられない話だったと思います。
本日の箇所を読みながら、先ほどの写真のネガの話を思い出しました。ヤコブにとってはまさにそのような神様の取り扱いだったのではないでしょうか。かつてヨセフがいなくなったとの話を聞き、ヤコブは悲しみのどん底に突き落とされたような思いでした。しかし、ヤコブの知らないところで、ヤコブの思いを超えた神様の御業が起されていたのです。それはまさに写真のネガから色鮮やかな写真に印刷されていくような神様の御業だったのではないかと思います。本日、この箇所を読みながら、この「神様の御業というのは、写真のネガのようだ」ということを覚えていきたいと思います。私たちの信じる神様は、このような取り扱いをしてくださる方なんだということを覚えていたいと思うのです。
その最たる出来事が、イエス・キリストの十字架と復活です。イエス・キリストの十字架はまさに弟子たちを始め、人々にとって、ネガティブにしかとらえられない出来事でした。しかし、十字架の出来事こそ、私たちを愛し、私たちを救うための神様の恵みの業でした。弟子たちには最初そのことが理解できませんでしたが、やがてそのことが分かるようになります。イエス様が十字架の後、復活されていく様子に、弟子たちはまさに、写真のネガが色鮮やかに反転するような神様の御業を見せられていったのです。