本日のローズンゲンの御言葉です。

「それゆえ、見よ、わたしは再び/驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び/聡明な者の分別は隠される。」イザヤ29:14

「群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。」マタイ15:31

本日の箇所には、次のように記されています。

「群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。」

ここには、群衆がイスラエルの神を賛美している様子が記されています。群衆が神を賛美したのは、「口の利けない人が話す」ようになり、「体の不自由な人が治り」「足の不自由な人が歩き」「目の見えない人が見えるようになった」のを見たからでした。言い変えるなら、群衆は、目の前で話しているその人が、かつて「口が利けない」ということを知っていたということです。自由に動いたり、歩んでいたりする人が、かつて「体の不自由な人」であり、「足の不自由な人」であることを知っていました。そして、目が見えている人が、かつて「目の見えない人」であることを知っていたのです。そのことを知っていたがゆえに、群衆は今この時に神の業が起されていることを知り、神を賛美したのです。ある先生がこんなことを言いました。

「教会を本当に知りたいなら、祈祷会を大切にしなさい。祈祷会には、その教会の『祈り』が分かちあわれるからね。社会の課題、教会の課題、そして、教会に集う一人一人の悩みだったり、痛みだったりを分かち合い、皆でそのことを覚え、心に一つにして祈るのが祈祷会なんだよ。その『祈り』に加わるということは、その『祈り』を通して、実際に神様がどんな業をしてくださっているかを目の当たりにすることができるということでもあるんだ。『祈り』を知らなければ、目の前に起こっている事柄の本当の意味が分からないままかも知れない。けれど、『祈り』に加わっていく時、教会の中に様々な形で、神様の業が起されていることを知らされていくんだ。その時、きっと本当の意味で教会を知ることができるんだよ。」

本日の御言葉を読みながら、そのことを思いました。『祈り』に加わっていく時、まさに、かつて悩みの中で、「口を利けない」ような状況だった人が、喜びに溢れて神様を語っている様子に出会うことがあります。「神様が分からない」「神様が見えない」とおっしゃっていた人が、神様が今も生きておられることを活き活きと証ししてくださっている様子に出会うことがあります。その他、色々な思いに縛られていた人が、その思いから解放されて自由にさせられていく様子に出会うことがあります。まさに、本日の御言葉にあるような神様の御業を見せられることがあるのです。その讃美に共に生かされていく場所が祈祷会なのだと思います。改めて、そのような祈祷会の意味について噛みしめながら、私たちの教会がますます祈りと賛美に溢れる場所とされていけたらと思いました。

鈴木牧人

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