「エジプトに行く前に」

創世記46章1-7節 

本日の箇所には、ヤコブがエジプトに出発するにあたって、一度、ベエル・シェバに立ち寄ったことが記されています。ヤコブはそこで神様からの御言葉を聞き、改めてエジプトに出発したのでしいた。私が大学生の頃、読んだ本にこんなことが書かれていました。
「かつてのヤコブだったら、どうだったろう。神様からの言葉や召命を受ける前に行動に移していたのではないだろうか。エジプトにはヤコブが誰よりも愛した息子ヨセフがいた。ヨセフが生きていると聞き、ヤコブはどうしても会いたいという思いが与えられていた。かつてのヤコブであれば、神様からの御言葉を聞くとか、召命を受けるとか、そういうことの前に行動を起こしていたのではないだろうか。しかし、本日の箇所でヤコブは、エジプトに出発するに先立って、神に礼拝し、その神様からの言葉を聞いている。そして、神様から『恐れてはならない』との言葉を聞いてから、出発している。ここに、かつてのヤコブとは違う姿が表れているのではないか。」
私はその本の言葉が心に残っています。まさに本日の箇所には、神様の取り扱いの中で、変えられていったヤコブの姿が表されているのではないでしょうか。ヤコブという人は本来、本当に打算的で、神様を信じるというのでも限定的なところがあり、自分が、自分がという思いが強くて、神様に対しても、駆け引きをしようとしたりしていました。しかし、そんなヤコブが神様に取り扱われ、変えられていったのです。そして、その象徴として、ヤコブの名前が変えられたということがあります。ヤコブというのは、「かかと」とか、「相手を引っ張る」という意味があったりするのですが、そんなヤコブが「神が勝利される」という意味のイスラエルという名に変えられていくのです。
私はそんなヤコブの姿に、本当に色々なことを教えられ、励まされます。私はヤコブの姿に「まさに自分だな」と思います。計算高くて、自分のことばかり考えていて、神様信じていると言いながら、限定的、条件付きで、すぐに周りをキョロキョロと見渡しながら、自分で何とかしようとする…。私自身の中に「ヤコブのような自分」がいるのだと思うのです。しかし、そんなヤコブが神様の取り扱いや、神様との出会いを通して、少しずつ変えられていく様子に教えられ、励まされます。私たちもそんなふうに神様に取り扱われているんだなと思うのです。ヤコブのように、自分で必死になって何とかしようとしていたりするのですが、そんな自分が行き詰まったり、自分の身の丈を知らされたり、失敗したり…。そういう状況の中で、神様に出会い、取り扱われながら、私の思いを越えた神様の憐れみ、赦し、恵みの取り扱いを知らされていったり…。そんな中で、「この神様を信じてもいいんだ」「この神様と共に歩んでいきたい」という思いにさせられながら、少しずつ変えられていく…。私自身、そんなふうに神様に取り扱われてきたのだと思います。今もその神様の恵みと憐れみの御手に取り扱われているのだと思うのです。

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