本日のローズンゲンの御言葉です。

「主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を/悪事を謀る者の手から助け出される。」エレミヤ20:13

「そこで、マリアは言った。『わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう』」ルカ1:46-48

本日は「灰の水曜日」です。本日より、受難節が始まります。イエス・キリストが私たちの罪のため、十字架に向かわれた歩みを覚え、祈りをもって過ごす時です。私の中でこの受難節への思いがこのところ、年を重ねる毎に深まっているように思います。2011年の東日本大震災以降、この時期、震災のことや原発事故のことを思わされています。その出来事とイエス・キリストの十字架の出来事が重なって迫ってくるのです。震災被害の痛みの中にある人、今も原発事故の苦難のただ中にある人を覚えながら、そのような人々の苦しみ、痛み、悩みを全て引き受けて、イエス様は十字架に向かわれたんだなと思わされます。コロナになり、さらにそのことへの思いが深まっています。そして、さらにミャンマーの軍事クーデター、そして、ロシアのウクライナ侵攻、さらに、先日のトルコ地震など、年を重ねる毎、色々なことを思わされながら、痛みながら、主イエス・キリストが、この悩み多き私たちを救ってくださるために、この地に来られ、十字架へと向かわれていったのだということを思うのです。本日の箇所には、次のように記されています。

「そこで、マリアは言った。『わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう』」

この箇所は、有名なマリアの賛歌です。マリアがイエス・キリストの誕生の知らせを聞き、そのことを喜び、讃美している様子が記されています。「灰の水曜日」にこの聖書の箇所が取り上げられていることに色々なことを思いました。

ある牧師がこんな話をしていました。

「アメリカに行った時、ある町でクリスマスのパレードを行なっていた。クリスマスをお祝いするための様々な山車が通り過ぎていた。イエス様がお生まれになった様子や、羊飼いたちだったり、東方の博士だったりがやって来ていた。皆、きらびやかな山車で、クリスマスの喜びを盛り上げていたのだが、最後に一台の山車がやってきた。そこには『イエス・キリストは、私たちの罪のゆえ、十字架にかかるため、生まれた』と書かれていた。その一言を読んだ時、ドキッとさせられた。クリスマスの喜びでどこか浮かれていた自分が、改めて、イエス・キリストがお生まれになった意味について考えさせられた。」

本日の御言葉を読みながら、その牧師の話を思い出しました。改めて、主イエス・キリストが私たちのため、私たちの悩み、痛み、苦しみ、そして、罪のため、私たちのもとに来られた、お生まれになったことを思いました。その主が私たちの慰めであり、救いです。そして、私たちの変わることがない希望です。「灰の水曜日」の今日、改めて、そのことを心に刻みつつ、共に主を見上げていきたいと思います。                  

鈴木牧人

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