「ヤコブの子ら」

創世記46章8-27節 

本日の箇所に記されているヤコブの子どもたちの名前を読む時、彼らについて書かれた様々な記述を思い出します。本当に色々なことがあったなと思うのです。そんな中、彼らが、こうして一緒にエジプトに向かって、新たな歩みに踏み出そうとしている姿に、それが決して当たり前のことではないと思うのです。本日のエジプトに向かうにあたって、「あいつを連れて行くのかやめよう」とか、「あんな奴と一緒には行きたくない」という話になってもおかしくないところだったのではないでしょうか。これまではとりあえず一緒にやって来たけれど、こうして新しい歩みに踏み出すにいたっては、一緒には行きたくない…。そんなこともあり得たのだと思うのです。実際、ユダは、以前、そんな思いから一度兄弟たちから離れていたりしました。そのことを思います時に、本日の箇所で、このメンツが一緒になって、エジプトに向かっている様子に、感慨深いと言いますか、凄いなと思ったりするのです。しかも、考えてみたいのは、これから彼らが行こうとしていたのは、ヨセフのもとでした。このヨセフとの間に一番色々なことがあったのです。そんなヨセフのところに行って、これから一緒にやっていこうとしている…。そのことを思います時に、なおさら、凄いな、かつてのことを思う時、考えられないような話だなと思ってしまうのです。そして、そんなことを思いながら、改めて、そんな彼らを主が取扱い、一つの群れとしていってくださったんだなということを思います。彼らの思いだけではとても一つにはなれなかったと思います。みんなそれぞれにそれぞれの形で傷つき、痛んでいて、どうにもならないような状況でした。しかし、そんな彼らに神様が働き、取り扱ってくださったのです。そんな中、彼らはそれぞれ神様に取り扱われ、砕かれたり、癒されたりしながら、それまでとは違う眼差しや思いが与えられ、相手との向き合い方が変えられ、相手に対し、寛容になることができたり…。そんなふうに、それぞれが神様の御手の中で創り変えられながら、共に歩む思いが与えられていったのだと思うのです。

そんなヤコブの家族の姿を見る時、「神の民」としての姿を思います。私たち教会もそうなんだと思うのです。私たちもそれぞれ色々なことがあります。そんな中、時に自分たちだけの人間的な思いでは一つになれないようなこともあるのだと思います。しかし、そんな私たちにイエス様が働いてくださり、イエス様との出会いの中で、立ち止まらされたり、砕かれたりしながら、それぞれが取り扱われ、創り変えられながら、一つとはなれない私たちが一つとされ、神の民とされていくのではないかと思うのです。教会はそのようにして歩んでいくのだと思います。

教会には色々な人がいます。色々なことがあります。そんなお互いが、神様に取り扱われ、整えられながら一つの群れとして歩んでいくのです。また、歩みの中で厳しい現実に向き合わされ、挫折を通らされることがあります。しかし、それでも神様に期待し、信頼し、今できる形で神様の御言葉に従っていこうとしていくのです。

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