「ゴシェンでの再会」
創世記46章28-34節
本日の箇所には、ヤコブとヨセフが再会したということが記されています。かつて突然行方が分からなくなり、もうとっくに亡くなってしまっていたと思っていたヨセフと、ヤコブは再会を果たします。ヤコブにしてみれば、本当に信じられないような出来事だったと思います。ヨセフにしても、こうしてお父さんに会うことができることは言葉にはならないような喜びだったと思います。そんなふうに再会をはたした二人、抱きしめ合い、泣きじゃくるのです。本当に心打たれる記述です。ここに至るまで本当に色々なことがありました。その中で、ヤコブにしても、ヨセフにしても、色々な思いを通らされてきました。その思いの中で、大きな決断を通らされることがありました。ヤコブは息子たちをエジプトに行かせる時に、末の息子であるベニヤミンを行かせなければなりませんでした。しかし、ヤコブは最後の最後までこのことを拒み続けます。「この子の兄は死んでしまい、残っているのは、この子だけではないか。お前たちの旅の途中で、何か不幸なことがこの子の身に起こりでもしたら、お前たちは、この白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのだ。」(42:38)そのように語って、散々拒むのですが、最終的にベニヤミンのエジプト行きを受け入れるのです。ヤコブとしては、ベニヤミンのエジプトに行かせることは終始、不安でしかありませんでした。でも、この状況で、もうベニヤミンをエジプトに行かせるより仕方ない…。そんな状況の中で、エジプト行きを受け入れるのです。半ば諦めの心境の中、どうなってしまうか分からない…。正直、不安な思いは拭えなかったのだと思いますが、何かあったとするなら、それも受け入れるしかない…。そんな思いの中で、神様にひたすら祈り、すがる思いでベニヤミンを送り出していったのではないかと思います。そのようなヤコブの決断があって、現在の出来事に至っていました。あの時の決断がなければ、ヨセフがエジプトにいることも分からなかったのだと思いますし、ヨセフと再会することもなかったのです。
そのように、これまでの色々なことを振り返りながら、本日の箇所を読む時、色々なことを考えさせられます。目の前の現実に、悩んだり、迷ったり、行き詰まったり、自分ではどうしようもないような状況で、半ば諦めの思いにさせられたり…。そんなヤコブが一切を神様に差し出し、明け渡し、歩んでいった時、そんなヤコブの思いをはるかに超えて、神様は働いてくださいました。そして、こうしてヨセフと再会することになったのです。そのことを思う時、ただただ驚かされますし、神様の御業、神様の御計画の素晴らしさを思います。これが神様の御業なんだなと思うのです。私たちの周りを見渡してみる時、今も悩ましいことだったり、課題と思えるようなことがあります。先が見えず、自分たちで何とかしようとするとすぐに行き詰まってしまいそうになることがあります。しかし、そんな私たちに「わたしには見えているんだよ、安心して任せなさい」と呼びかけておられる方がおられます。その主に信頼し、明け渡しながら、私たちなりの歩幅で一歩一歩応えていきたい…。そのように思います。