「二人または三人が主の名によって」

マタイ18:19-20

昨年、現地支援委員会が東日本大震災の証言集を出しました。現地支援委員会が中心になって、連盟が2011年3月11日から10年間行なってきた様々な働きをまとめた証言集です。その証言集を読みながら、改めて思ったのは、当時の状況として、皆で同じ課題に向き合い、一つのことをしているのですが、そのことに関わるお一人お一人、受け止め方は様々で、ある人にとっては「これでいい」と思っているようなことでも、別の人にとっては「本当にそれでいいの?」と思ってしまう…。そんな混沌とした状況があったなと思いました。
 そんな中、震災当時、一つ一つの働きを始めていくのも、本当に大変でした。何か一つを始めていくにしても、それぞれにそれぞれの思いがあって、その思いが違くて、中々足並みが揃わず、「これが正しい」「こうすればいい」ということも分からないまま、混沌している状況で、あれこれとやっていくようなことばかりでした。幾度となく「何かを一緒にやっていく」ことの大変さを突きつけられました。しかしながら、同時に、それでも一緒にやっていかなければいけないんだということを度々思わされてきました。そして、そうじゃなければやっていけないと思わされてきました。実際に、一緒にやってこれたからこそ、何とかここまで来ることができたということを思うのです。
 何というのでしょう。おそらく、自分だけの思いでやっていくなら、色々と楽だったこともあったと思います。周りからあれこれと言われることもなかったと思うのです。ただ自分の思いとは違う人の声があったからこそ、立ち止まることができました。その声で気づくことができたこともありました。そして、何より、自分一人の思いだけで進んでいくなら、きっと不安で仕方なかったのだと思いますし、とてもやっていくことなどできなかったのだと思うのです。心弱くなりそうになった時、思いを合わせてくれる人がいる…。一緒に悩んでくれる人がいる…。そして、一緒に祈り合わせながら、協力してくれる人がいる…。そのことがどんなに励ましとなり、支えになっただろうかと思うのです。
 本日のマタイ18:19-20の御言葉は、私が教会というものを考える時に、いつも原点として思い浮かべる御言葉です。ここには、二人の人が神様に祈り求めている様子が語られています。私はこの御言葉を読む時、二人がどんな思いにさせられていたんだろうかと思います。マタイ18:15以下には、一人の兄弟が罪を犯し、何とか彼を説得しようと必死に対話を試みながら、その兄弟を立ち帰らせようとしている人々の様子が語られています。しかし、その兄弟は散々関わりながら、結局、教会の群れから離れてしまいました。関わってきた人たちにしてみれば、本当にがっかりさせられた思いだったのではないでしょうか。そんな中、人々は自分たちの痛み、悲しみを主に打ち明け、全てを明け渡し、願い、求めていったのです。それが「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求める」という状況でした。そんな二人のただ中に「わたしもその中にいるんだ」とイエス様は宣言してくださったのです。震災のただ中でこの約束の言葉に何度も励まされてきました。

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