本日のローズンゲンの御言葉です。

「主よ、御目は/真実を求めておられるではありませんか。彼らを打たれても、彼らは痛みを覚えず/彼らを打ちのめされても/彼らは懲らしめを受け入れず/その顔を岩よりも固くして/立ち帰ることを拒みました。」エレミヤ5:3

「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。」ルカ16:10

亡くなられたドリフターズのリーダーのいかりや長介さんが、かつて、こんなことをおっしゃっていたそうです。

「強くなることはないです。弱い自分に苦しむことが大事なんです。人間はもともと弱い生き物なんです。それなのに心の苦しみから逃れようとして強くなろうとする。強くなるということは鈍くなることなんです。痛みに鈍感になるということです。自分の痛みに鈍感になると人の痛みにも鈍感になる。自分が強いと錯覚した人間は他人を攻撃する。痛みに鈍感になり優しさを失う。いいんですよ。弱いまんまで。自分の弱さと向き合い、それを大事になさい。人間は弱いままでいいんです。いつまでも。弱いものが手を取り合い。生きていく社会こそが素晴らしい」

 素敵な言葉だなと思いました。本日の御言葉には、次のように記されています。

「主よ、御目は/真実を求めておられるではありませんか。彼らを打たれても、彼らは痛みを覚えず/彼らを打ちのめされても/彼らは懲らしめを受け入れず/その顔を岩よりも固くして/立ち帰ることを拒みました。」

この御言葉を読みながら、「彼らを打たれても、彼らは痛みを覚えず」という言葉が心に留まりました。そして、その言葉といかりや長介さんの「自分の痛みに鈍感になると人の痛みにも鈍感になる/自分が強いと錯覚した人間は他人を攻撃する/痛みに鈍感になり優しさを失う」という言葉が重なってくるように思いました。「痛みを知る」ということは「大切なことに気づく」ということなのだと思います。歯が痛いことによって、虫歯に気づきます。歯の神経を取れば、虫歯があっても平気になりますが、その虫歯が悪化していても、気づけなくなってしまいます。そのように私たちは痛みを感じるからこそ、気づくことがあるのだと思います。そんな中、自分の痛みにも、人の痛みにも立ち止まることができることは大切なことなのだと思います。その都度、立ち止まり、歩んでいこうとする時、回り道をさせられたり、遅々として進まないことがあるかも知れませんが、それでも一つ一つの歩みを大切にしていく時、私たちは着実に大切な一歩一歩を進んでいくことができるのではないかと思います。

「弱いものが手を取り合い/生きていく社会こそが素晴らしい」

 この言葉に励まされていきたいと思いました。

鈴木牧人

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