「ファラオを祝福するヤコブ」
創世記47章1-12節
本日の箇所のヤコブとファラオの会見の時を見ていく時、「これが時の最高権力者と、外国からやってきた羊飼いのやり取りなんだろうか」と思ってしまいます。47:7には「ヤコブはファラオに祝福の言葉を述べた」ということが記されています。47:10には「ヤコブは、別れの挨拶をし」と書かれていますが、ここでも「祝福する」という意味のヘブライ語が使われています。この言葉は、神様が人々を祝福するという時に使われる言葉です。もちろん、この時、ヤコブは神様のようになってファラオを祝福しているわけではありません。あくまで、ファラオのさらなる繁栄を願い、祝福の言葉を述べたということなのだと思います。ですが、少なくても、このヤコブとファラオのやり取りというのは、時の最高権力者と、外国からやって来た羊飼いという立場を越えて、まるで、対等の関係であるかのように見えるのだと思います。ヘブライ7:7には「下の者が上の者から祝福を受けるのは、当然なことです」(ヘブライ7:7)という御言葉があります。本来、祝福というのは、上の者が下の者にするものなのです。そのことを考えます時に、ヤコブが上の者であるかのような、そんな印象さえ受けます。実際、ファラオはヤコブに対し、単に外国から来た羊飼いということだけではない「何か」を感じていたのではないでしょうか。そして、そのように感じていたのは、ヤコブの信仰に基づくものなんだろうなと思うのです。
本日、改めて、私たちが招かれている信仰の歩みについて考えていきたいと思います。ヤコブはファラオに対し、目に見える何か優れたものを持っていたわけではありませんでした。揺るがない王座に座っていたファラオに対し、ヤコブは、自分の住むところさえ定まっていないような遊牧民でした。日々の生活では苦労すること、思い悩むことも多い人生だったと思います。ですが、その姿からは、目には見えない何かが放たれていました。この時代、全てのものを手にしていたファラオでさえ、一目置き、そのファラオにさえ、祝福を分け与えていくような、豊かさを持っていたのです。私は、信仰者として生きるということの素晴らしさ、豊かさがここにあるのではないかと思うのです。
使徒3:6には、ペトロとヨハネが、神殿の「美しい門」と呼ばれるところで、足の不自由な人を癒したという記述があります。この時、施しを願う足の不自由な人に、ペトロとヨハネは「わたしには金や銀はありません」(使徒3:6)と言いました。しかし、「持っているものがある、それをあなたにあげよう」と語り、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じました。その時、足の不自由な人は歩き出すことができたのです。私たちはヨハネやペトロのように、持てるものもなく、金も銀も持っていないかも知れません。しかしながら、そんな私たちは、他の人にはない特別なものを与えられているのです。それはナザレの人イエス・キリストの名によって、私たちは立ち上がり、歩き出すことができる…。その信仰を私たちは与えられているのです。その信仰を伝えることができるのです。その目には見えない豊かさに生かされているのです。