本日のローズンゲンの御言葉です。
「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」申命記8:3
「シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。』」ヨハネ6:68
本日、ミャンマーディナーナイトが行なわれます。今回は、カレン族出身のPさんが料理を作ってくださいます。ミャンマーは他民族国家なので、それぞれの部族ごとに独特の料理があります。これまで、ビルマ族の伝統料理、カチン族の伝統料理を食べてきました。興味深いと思ったのは、ビルマ族の方は、カチン族の料理を食べたことがないと言われたり、カチン族の方はカレン族の料理を食べたことがないと言われていたことです。そんなふうに私たちが行なっているミャンマーディナーナイトを通して、ミャンマーの方々同士の食卓交流が行なわれています。昨日、食材を購入しに行く途中、Pさんが「わたしは今、ドキドキしています。皆さんが美味しいって言ってくれなかったらどうしようかと思います」とおっしゃっていました。外国の地で、自分たちの国の料理を始めて、食べてもらうわけです。「もし口に合わなかったら、どうしよう」と思ってしまうのは、当然だと思います。でも、それでも、こうやって、自ら料理を作ってくださることを申し出てくださる…。思いがあるから、そう言ってくださるのだろうなと思いますし、その思いが何より嬉しいなと思いました。本日の箇所には、次のように記されています。
「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」
イスラエルの民は、荒れ野の旅の中で、苦しみや飢えを経験しました。そのような荒れ野の旅の中、イスラエルの民は天からのマナで養われました。わたしは本日の箇所にある「あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた」という言葉を読む時に思うことがあります。イスラエルの民が「味わったことがない」とは、単に口で感じる「味」のことだけではないのではないでしょうか。苦しみの中、飢えの中、そういう中で「天からの養いで生かされる」という経験を通して、味わった慰め、平安、喜びという「味」があったのではないかと思うのです。そんなことを思いながら、ふと、本日のミャンマーディナーナイトのことを思いました。これまで数回に行なわれてきたミャンマーディナーナイトに参加しながら、つくづく、「この交わりが単なるミャンマー料理を食べる会ではないな」ということを思わされてきました。前回のミャンマーディナーナイトでは、カチン族のJさんが食事を作りながら、呟くように「まるで実家にいるみたいだ」とおっしゃってくださいました。今は中々故郷に帰れない状況の中で、少しでもそんなふうに思ってくれたとするなら、本当に良かったなと思いました。また、食事会に参加した姪浜教会の皆さんからは「主にある交わりってこういうことなんだと感じました」という感想をお聞きしました。そんな皆さんの言葉を聞きながら、このミャンマーディナーナイトを通して、イエス様は私たちに、単なる食事会を越えた、慰めだったり、励ましだったり、喜びを与えてくださっていることを思うのです。そして、本日、このミャンマーディナーナイトの日に、この御言葉が与えられていることを通し、改めて、荒れ野のイスラエルの民を主がマナで養ってくださったように、ミャンマーの人たち一人一人を天からの養いでもって養ってくださいと祈られる思いでした。
鈴木牧人