本日のローズンゲンの御言葉です。

「神よ、賛美は御名と共に地の果てに及ぶ。右の御手には正しさが溢れている。」詩48:11

「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。」マタ10:7

3/26はM牧師をお迎えしての礼拝でした。その中でM牧師は「others」ということを話されていました。M牧師がおっしゃる「others」とは、「社会で従属的立場に置かれた人」のことを指します。M牧師はヨハネ4章の「イエス様とサマリアの女性との出会い」の記述から、「others」の人たちとの出会い、関わりについてお話をされていました。このサマリアの女性は、まさに「others」でした。当時、サマリア人は、ユダヤ人たちから差別されていましたし、そのサマリア人たちの中でも、この女性は肩身の狭い思いで生きてきました。そんな彼女に対して、イエス様は声をかけ、飲み水を求めました。イエス様は、彼女に敬意をもって接しながら、心からの思いで彼女を迎えたのです。イエス様の行動は、当時の常識からは考えられないことで、タブーとも言える行動でした。しかし、そのようなイエス様の姿に私たちは大切なことを学ばされていくのだと思います。この時代、社会で脇に追いやられてしまっているような「others」がいるとするなら、そのような人たちに対して、私たちは、時に周りからタブーとさえ思われてしまうような常識破れのことをしてでも、その人たちに敬意をもって接し、出会い、関わっていく…。そのことが、受難節のこの時期、イエス様の姿から学ぶべきことなんだとM牧師はおっしゃっていました。

本日の箇所には、次のように記されています。

「神よ、賛美は御名と共に地の果てに及ぶ。右の御手には正しさが溢れている。」

本日の箇所を読みながら、「右の御手には正しさが溢れている」との言葉が心に迫ってきました。聖書が語る「正しさ」とは、必ずしも私たちの価値観の中にある「正しさ」ではないのだと思います。M牧師がメッセージの中でお話してくださったような、「others」との出会いを通して表される「正しさ」もあるのではないでしょうか。

昨日、礼拝後にこんなことがありました。礼拝後、会堂の入り口で、M牧師と一緒に、礼拝に来られた方々のお見送りをしていました。その時、M牧師が私に礼拝堂入り口に飾ってある絵について質問をしてきました。現在、教会の礼拝堂入り口には、一枚の絵が飾っています。「パウロとオネシモ」を描いた絵です。オネシモは、新約聖書のフィレモン書に登場する人物で、フィリモンの家に仕えていた奴隷でした。しかし、オネシモはフィレモンの家を脱走してしまうのです。オネシモに何があったのかは分かりませんが、当時、脱走奴隷には厳罰が処せられていました。オネシモは行く宛てもない中、パウロのもとに逃れるのです。パウロはオネシモを保護します。パウロにとって、フィリモンは大切な友人でした。そんな中、パウロは再びオネシモをフィリモンの許に返します。その時に書いたのは、「フィレモンの手紙」でした。絵には、パウロのもとに逃れてきたオネシモを、パウロが抱きしめて迎え入れる様子が記されています。M牧師が、礼拝後、その「パウロとオネシモ」の絵について質問してこられたので、こんなふうに答えました。

「これは、パウロとオネシモです。オネシモもまさに『others』ですね。」

私がそう言うと、M牧師はにっこりしながら、「そうだね」と言っておられました。M牧師からのメッセージを聞いた後、この絵についてM牧師とそんなふうに分かち合ったことを印象深く思いました。ぜひ、この一週間、「others」のメッセージについて思いを巡らせていけたらと思います。

        鈴木牧人

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