「それぞれの十字架」
ルカによる福音書23章26-43節
本日の箇所には、キレネ人シモンという人がイエス様の代わりにイエス様の十字架を担いだ様子が記されています。この人がなぜ、十字架を担ぐことになったのかについては詳しくは分かりませんが、おそらく、たまたまそこにいたのだろうと思います。過ぎ越しの祭りに礼拝するため、田舎から出て来たところ、目の前に騒ぎがあり、「何だろう」と思って見に来たのではないでしょうか。すると、そこにイエス様が十字架を担いでおられる様子を見つけました。そして、訳も分からないまま、ローマの兵隊から「おい、お前」と呼び止められ、有無を言わさず、十字架を担がされることになったのだと思うのです。シモンにしてみれば、「何で自分がこんなことしなきゃいけないんだ」という思いだったのではないでしょうか。おそらく、事情を何も知らない人たちからしてみれば、そんなふうにシモンが十字架を担いでいれば、まるでシモンが犯罪を犯したような、そんな目で見られたりしたのではないかと思います。そんな状況にシモンとすれば、ますます「何で自分がこんなことをしなければいけないんだ」と思ったのではないかと思うのです。
イエス様とシモンが十字架を担いで歩んでいった周りには、色々な人がいました。その中にイエス様が十字架につけられる様子に心を痛め、嘆き悲しんでいる人たちもいました。イエス様は、その婦人たちの方を振り向いて、彼女たちに「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」と言われたのでした。これはどういう意味でしょう。この言葉については、色々な受け止め方ができます。ただ、その一つとして思うのは、ここで、婦人たちは、イエス様の身に起こったことを嘆き悲しんでいたわけです。言い変えるなら、イエス様のこと、自分ではない他の人のことを悲しんでいたのです。これに対して、イエス様が言われたことは「わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」ということでした。ここで問われていること、悲しまなければなければならないのは「自分ではない他の人のこと」ではなく、「自分たち自身のこと」として考えなければならないんだという思いにさせられたのだと思うのです。
ここには、色々な意味で「私たちの世界」というものが凝縮されているのではないかと思います。私たちはともすると、すぐに本日の箇所にあるような世界を作り出してしまっていないでしょうか。私たちが、婦人たちのようになってしまったり、キレネ人シモンを作り出していたりしないだろうかと思います。先週、私たちの教会はマウマウイン先生をお迎えしてお話を聞きました。マウ先生からミャンマーの話をお聞きする度に心を痛めます。お話を聞かせていただけば、いただくほど、この問題がミャンマーだけのことではないと思わされます。ミャンマーで起こっている色々なことを通して、私たちが問われ、自分ごととして向き合っていかなければいけないと思います。私たちがこのことを他人事のように考えていないでしょうか。そんなことを思います時に、本日の婦人たちの姿、そして、キレネ人シモンの姿が、現在の私たちの様々な状況に重なってくるように思うのです。