「失意の帰り道で」

ルカによる福音書24:13-35

本日の箇所を読んで印象的なのは、イエス様が二人に声をかけた時、「二人は暗い顔をして立ち止まった」(24:17)という記述です。彼らはこれまで心痛めることを山ほど経験していました。彼らが何より愛し、信じ、従ってきていたイエス様が十字架にかけられ、殺されてしまったのです。言葉にはならない悲しみだったのだと思います。イエス様が十字架につけられていく過程で、彼らは本当に色々なものを見せられてきたのだと思います。イエス様が捕らえられた後、裁判にかけられたり、鞭を打たれたり、茨の冠を被せられたり、十字架につけられていく…。そこでは、言葉では言い表せないほどの人の醜さが見せられたのだと思います。まったくもって裁判とは呼べないような理不尽な裁判が行われ、人々はまともな判断もできない中、パニック状態になって、「十字架につけよ」と叫び続けていました。
加えて、仲間だと思っていたはずのイスカリオテのユダがイエス様を裏切り、イエス様を祭司長たちに売り飛ばしてしまいました。また他の弟子たちも皆、イエス様から離れ去ってしまいました。そんな仲間たちのことを思う時、これまで散々立派なことを言っていたのに、一体何なんだという思いにさせられたりしたのではないでしょうか。でも、自分たち自身も人のことを言えないような状況だったりもしたのではないでしょうか。そんな中、自分を含めて、周りのことも何もかも信じられない…。そんな思いの中で、心塞ぎながら歩んでいたのではないかと思うのです。
そんな彼らのことを思いながら、私たちもそんなことがないだろうかと思います。この一週間でも色々なことがあったと思います。嬉しいこと、楽しいこともあったと思いますが、ショックなことがあったり、誰かのひと言に傷ついたりしたのではないかと思います。取り立てて特別とは言えないような私たちの日常の歩みの中でも、そんなことがあるのではないでしょうか。そんなことを思う時、本日のエマオの途上の弟子たちの姿は、時々の私たちの姿であるかも知れないと思わされます。
そんなことを思いながら、本日の箇所で、何よりも受け止めていきたいなと思うことがあります。それは、そんな彼らにイエス様が近づいてきてくださったということです。イエス様は彼らに近づき、彼らと一緒に歩き始められました。本日の箇所を読みながら、何より、この聖書の記述を心に刻んでいきたいと思うのです。イエス様は私たちにも同じように近づいてくださるのです。私たちが意気消沈し、ふさぎ込み、暗い顔をして歩んでいる時、そんな私たちにイエス様は近づいてきてくださり、私たちと一緒に歩んでくださるのです。
そして、もう一つ覚えていきたいのは、弟子たちは、せっかくイエス様が一緒に歩いてくださっているのに、そのことが分かっていなかったということです。私たちもそういうことがあるのではないでしょうか。イエス様が私たちに近づき、私たちと歩いてくださっているのに、そのことが分かっていないのです。しかし、私たちが気づく、気づかないに関わらず、イエス様は、私たちに近づいてくださり、私たちと共に歩いてくださるのです。

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