本日のローズンゲンの御言葉です。

「主は恵みの業と裁きを愛し/地は主の慈しみに満ちている。」詩33:5

「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」Ⅱコリ8:9

受難週を迎える度に思い出すことがあります。私が神学校時代、神学寮で「洗足」式が行なわれました。ヨハネ13章には、イエス様が十字架にかけられる直前、弟子たち一人一人の足を洗ってくださったという記述があります。その記述に倣い、二人の宣教師が水の入ったタライの前に座り、手ぬぐいをもって、神学生一人一人の足を洗い、手ぬぐいでふき取ってくださったのです。実際に「洗足」を経験しながら、弟子たちの気持ちがリアルに迫ってきました。人に足を洗ってもらう経験というのは、中々ないと思います。まして、それが、自分の尊敬する先生なら、なおさらです。自分の足を差し出すことに躊躇を覚えながら、ありがたいと思ったり、恥ずかしいと思ったり、申し訳ない思いだったり、色々な思いにさせられました。そんなふうに、何とも言えない思いにさせられた記憶が、私にとって忘れられない経験となりました。おそらく弟子たちも、この「洗足」の経験は生涯忘れられない経験となったのだろうなと思います。イエス様は弟子たち一人一人の足を洗った後、次のように言われました。

「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」(ヨハネ13:12-14)

ここで、イエス様は、主であり、師である自分が、誰よりも率先して、足を洗ったように、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならないと言われました。弟子たちは、「洗足」の強烈な経験と共に、このイエス様の言葉も深く心に残ったのではないでしょうか。

本日の箇所には、次のように記されています。

「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」

本日の御言葉を読みながら、「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」という言葉が心に留まりました。そして、心に迫って来たのは、「洗足」の出来事でした。イエス様は私たちのために自ら低くなってくださり、貧しい者となってくださいました。そのことによって、私たちは慰めを得、救いを得、永遠の命の豊かさに生かされることになりました。「洗足」の出来事はそのことを象徴しているのではないでしょうか。そのイエス様は、私たちに呼びかけているのだと思います。私があなたがたの足を洗ったように、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい…。そのように私たちが互いに仕えるように呼びかけられているのだと思うのです。

鈴木牧人

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