「ヨセフの政策」
創世記47章13-26節
エジプトやカナンを襲った飢饉は激しさを増していきました。そんな中、人々はヨセフのもとに食物を求めてやってきます。人々はそれぞれ銀を支払って、ヨセフから穀物を買い取り、それで飢えをしのいでいきます。しかし、飢饉が続く中、やがて人々は、自分たちの手許に銀が無くなってしまいました。そこで、人々はヨセフのもとに、自分のところにある家畜を連れていくことにします。そして、その家畜と引き換えに食料を求めていったのです。しかし、この飢饉はさらに続きます。このため、人々は自分のもとに差し出せるものがなくなってしまって、ついに自分たち自身と、自分たちの農地を指しだすことになるのです。
本日はヨセフが行なった「政策」について考えたいと思います。一つの見方としては「ヨセフは本当に有能で、上手いことやったな」ということが言えると思います。ヨセフはこの機会に、全てのものをファラオのものにすることに成功しました。また、どんな形であれ、人々に対して食べ物を与え続けたわけです。それはすごいと思います。エジプト人たちにとって、ヨセフは文字通り、命の恩人だったのだとも思います。そのように考える時、本日の箇所でヨセフが行なった「政策」は表面上、何か問題があるわけではないですし、宰相として優れた働きをしたということが言えるのだと思います。しかし、その一方で「これでいいのだろうか?」と思います。長引く飢饉の中で、人々は生きるか、死ぬかの危機に直面していました。そのような状況の中、ヨセフはエジプトの行政官として、人々に食べ物を与えることと引き換えに、人々の家畜を奪い、土地を奪い、奴隷にまでしていったのです。そこには、人々の弱みに付け込んでの「搾取」が行なわれているんじゃないでしょうか。
本日の箇所でヨセフが行なった「政策」は、「平等なやり取り」と言えるのだと思います。しかし、それは「公平」だったのでしょうか。お互いに持てるものを差し出しているのですが、一方の側は持っているものが圧倒的に少ないのです。そのような状況の中、一方の側はどんどん不利な状況に置かれてしまっている…。その状況は、「平等」ではあるかも知れませんが、「公平」とは言えない…。そんな状況があるのではないかと思います。
本日の箇所において、ヨセフは言わば「勝ち組」の人間でした。食糧を倉に蓄え、圧倒的に持てるものとなり、飢饉の時、その食糧と引き換えに、エジプトの人たちをファラオの奴隷とすることに成功し、自らは人々の上に君臨することができたのです。しかしながら、どうでしょう。ヨセフは、この時、上手いことやって、いい思いをすることができたかも知れません。しかし、その後、ヨセフの子孫たちは出エジプトの時代になると、エジプト人の奴隷にされてしまうのです。一時は、色々上手にやって、いい思いをすることができるのですが、状況が変われば、置かれている状況も変わり、これまでのつけを払わなければいけなくなってしまうのです。そんな世界を見ながら、私たちの周りの世界でも、あちこちで同じような世界が展開されているのではないかと思います。そんな中、「平等」と「公平」というテーマは、私たちも問われているのではないでしょうか。