「エジプトでの十七年」

創世記47章27-31節 

本日の箇所には「ヤコブは、エジプトの国で十七年生きた」(47:28)と書かれています。この「十七年」という言葉に注目したいと思います。ヨセフはかつて兄たちに酷い目に遭わされ、エジプトに売られてしまいました。そのことが起こったのが、十七歳の時でした。つまりヨセフがヤコブの家で過ごすことができたのは十七歳の時まででした(37:2)。そのことと、本日の箇所でヤコブがエジプトで生きた年数が十七年だったことは繋がっているのだと思います。ヤコブやヨセフにとって、自分たちが奪われた、失ってしまった、そのような年月を取り戻していく時間だったのではないでしょうか。
同時に、この十七年を通して、ヤコブは、ヨセフとの関係をやり直し、父親としての務めを果たしていく時間ともなったのではないでしょうか。もちろん、かつての十七年も、ヤコブは、ヨセフに対し、父親として精一杯のことをしていたのだとは思いますが、印象としてヨセフを溺愛し、他の兄弟たちに対して、特別扱いしながら、結果、家族の関係をおかしくさせてしまったという印象があります。そんな中、今一度ヨセフと過ごしながら、ヨセフに対して、これまでと違う形で関わっていったのではないかと思います。
本日の箇所で、ヤコブはヨセフに対し、自分が死んだ後、先祖たちの墓に葬るよう、お願いしました。しかもヤコブはお願いして終わりではなく、わざわざヨセフの手を、自分の腿に入れさせ、誓わせたのでした。この行為は親しい間柄に大切なことを誓わせる行為でした。それほどまでに、ヤコブは死んだ後、自分がカナンの地のマクペラの墓に葬られることを願ったのです。それはヤコブにとって、本当に重要なことでした。単に故郷の地に葬られたいということだけではなく、ヤコブにとって、それは譲ることができない信仰の事柄だったのです。ヨセフはそんなヤコブの姿を目の当たりにしたのですが、そのことを通して、感じること、学ぶことがあったのではないでしょうか。ヨセフはこれまでも神様を信じていましたし、信仰をもって歩んでいました。しかし、ヨセフは若くしてエジプトに売り飛ばされ、エジプトの地で長い時間を過ごしていました。そんなヨセフは「カナンじゃなきゃダメなんだ」という思いをどこまで持っていたのでしょうか。それほど持ってなかったんじゃないでしょうか。そんな中、自分に対して、これほどまでにお願いをし、自分に誓いまでさせた父ヤコブの姿に、このカナンの地のマクペラの墓に葬られるということはどういうことなのか、アブラハム、イサクと受け継がれていった信仰とは何かを学んだのだと思います。結果、ヨセフ自身もこのマクペラの墓に葬られることを希望するようになっていきます。ヨセフがそのような思いにさせられたのは、ヤコブと過ごした十七年があったからなのだと思うのです。そのように、ヨセフにとって、ヤコブと過ごした十七年は、アブラハムから繋がれていった大切な信仰を学んでいく、かけがえのない時でもあったのだと思うのです。

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