「滴り落ちる祝福」
創世記48章1-22節
本日の箇所は、ヤコブがヨセフの息子マナセとエフライムに自分が父から受け継いだ「神様の祝福」を分け与えたという箇所です。ここから「神様の祝福」ということについて考えていけたらと思います。本日の箇所を読みながら、「神様の祝福」ということでまず思うのは、「繋がること」です。アブラハムからイサク、イサクからヤコブ、そして、ヤコブからマナセとエフライムに祝福が及んでいったのは、お互いが繋がっていたからでした。そのように祝福は、繋がりの中で広がっていくのです。そして、それは私たちも同じだと思います。ヨハネ15:5には、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」と書かれています。イエス様は、ここで私たちとイエス様の関係が「ぶどうの木」と「枝」のような関係だとおっしゃいました。ぶどうの枝は何より、木にしっかりと繋がっていなければ実を結ぶことができません。同じように、私たちもイエス様にしっかりと繋がっていなければ実を結ぶことはできないのです。このように、私たちが「神様の祝福」というものを考える上で大事なことは繋がることです。その繋がりから「神様の祝福」は及んでいくのです。
ヤコブは、マナセやエフライムを祝福するにあたって、自分が神様から祝福を受けた時のことを語りました。神様はヤコブに対し、「あなたの子孫を繁栄させ、数を増やし/あなたを諸国民の群れとしよう。この土地をあなたに続く子孫に/永遠の所有地として与えよう」と語られました。ここで神様が語られたことというのは、ヤコブだけに語られた言葉ではなく、アブラハムや、イサクにも語られた言葉でした。アブラハム、イサク、ヤコブはこの神様の祝福の約束を信じ、歩んできたのです。このことから「神様の祝福」ということを考えるにあたって、もう一つ大切なことを考えていきたいと思います。それは、神の御言葉に立つことです。私たちが神様の祝福を期待するなら、その根拠は神様の御言葉にあるのです。
ヤコブはマナセ、エフライムに祝福した時にわざわざ右手と左手とを交差させて祝福しました。同じ祝福でも右手のほうが豊かな祝福でした。ヨセフはそのことが分かっていましたから、そのことを訂正しようとします。しかし、ヤコブはあえてそのような祝福をしました。そして、それは神様が決められたことだと語ったのです。このことから、「神様の祝福」について、もう一つ大切なことを学びます。それは、「神様の祝福」は、一方的な出来事だということです。神様が誰をどのような形で祝福されるのか決められるのです。私たちが主ではなく、神様こそが主なのです。自分の思いが先に立って、その思いばかりに固執をし、頑なになってしまって、せっかくの「神様の祝福」が見えなくなってしまうことがあります。そんな私たちが自分に砕かれながら、私の思いを越えた神様の祝福に気づかされたということがあるのです。いずれにしましても、私たちが神の祝福に与っていくためには、私が「主」ではなく、神が「主」であることをわきまえ知ることが大事なのです。