本日のローズンゲンの御言葉です。

「優れた会衆の中であなたに感謝をささげ/偉大な民の中であなたを賛美できますように。」詩編35:18

詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」エフェソ5:19

本日の箇所には、次のように記されています。

「優れた会衆の中であなたに感謝をささげ/偉大な民の中であなたを賛美できますように。」

この御言葉を読みながら、「優れた会衆の中で」と「偉大な民の中で」という言葉が心に留まりました。そして、「優れた会衆」や「偉大な民」とはどういう人たちのことなんだろうと思いました。聖書を調べてみたところ、「優れた会衆」という箇所の「優れた」というところは「ラブ」というヘブライ語が使われていました。この言葉は「多くの」という意味があります。「偉大な民」という箇所の「偉大な」というところは「アーシューム」というヘブライ語が使われていました。この言葉は「強い」とか「強力な」とか「数多くの」という意味があります。「アーシューム」というヘブライ語が気になったので、さらに調べてみました。すると、この言葉は創世記と出エジプト記で、それぞれ一回ずつ使われていることが分かりました。

「アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。」(創18:18)

「国民に警告した。『イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。』」(出1:9)

この二つの御言葉を読みながら、色々なことを思いました。創世記にしても、出エジプトにしても、同じように強く、偉大な「アーシューム」としての「イスラエルの民」の姿が記されています。しかし、創世記と出エジプト記では、その民の姿の印象は大きく違うのではないでしょうか。創世記では、祝福に溢れた民の姿として、「やがてアブラハムの子らはこのようになるんだ」と約束の言葉として語られています。一方で、出エジプト記ではある意味、創世記18:18の約束の成就として「アーシューム」としての「イスラエルの民」の姿が語られながら、実際にはエジプト王ファラオに厄介者として見られ、「アーシューム」であるからゆえに、苦難を通らされる様子が語られているのです。そんなふうに、同じ「アーシューム」の民であったとしても、創世記では心から喜べる形で語られている様子と、出エジプト記では必ずしも手離しで喜べない状況の中で語られているのです。そんな創世記、出エジプト記に記されている「アーシューム」の民の姿を思いながら、改めて、本日の箇所にある「偉大な(アーシューム)民の中であなたを賛美できますように」という言葉について考えさせられました。「偉大な(アーシューム)民の中で讃美する」と言っても、きっと色々な状況があるのではないでしょうか。共に讃美できることを心から喜べることもあれば、場合によっては様々な憂い、悩みの中で手離しでは喜べない思いにさせられてしまう…。しかし、その中で共に神様を見上げながら、「それでも私たちは讃美しよう」と選び取っていく…。そういうこともあるのではないかと思うのです。いずれにしても、私たちは共同体として、色々な思いを通らされることがあるかも知れませんが、共に主を讃美することは忘れないでいたいと思いました。       

     鈴木牧人

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