本日のローズンゲンの御言葉です。
「わたしは、神に近くあることを幸いとし/主なる神に避けどころを置く。わたしは御業をことごとく語り伝えよう。」詩編73:28
「躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。」使徒3:8
本日の箇所には、次のように記されています。
「躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。」
この箇所には、「美しい門」という神殿の門のそばに座っていた、生まれながら足の不自由な人を、ペトロとヨハネが癒したということが記されています。この足の不自由な人は、ペトロやヨハネから金銀の施しを求めていました。しかし、ペトロは「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう」(使徒3:6)と言って、足の不自由な人を立ち上がらせたのです。聖書には「そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした」(3:7-8)と書かれています。使徒言行録を記したルカは医者だと言われていますが、いかにもルカらしい表現と言えます。そして、この癒しの出来事について、さらに色々なことを思います。この出来事は、単なる足のハンディキャップの癒しという限定された事柄だけでなく、もっと豊かな意味が込められているのではないでしょうか。
ペテロとヨハネと出会うまで、この人は神殿の境内に入る人から施しを得るため、毎日「美しい門」のそばで座り続けていました。そのように、彼は、それまでの人生を、自分の足で立つことができず、座っているだけの人生を過ごしてきました。そんな彼の姿は、私たちに様々なメッセージを語りかけているのではないでしょうか。自分の足で立つことができない…。それは身体的な問題だけではないのではないかと思います。たとえば、失敗をすることを恐れるあまり、「自分で色々なことを決めたり、選び取ったりすることができない」ということがあります。あるいは、「生きる目標を見失い、どう歩んでいけばいいのか分からない」ということもあります。そんな私たちは、ある意味、「美しい門」のそばで座り続けている足の不自由な人と重なってくるのかも知れません。そんな中、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(3:6)との言葉によって、喜びのうちに、自分の足で立ち上がり、歩き始めた足の不自由な人の姿が、心に迫ってきます。イエス・キリストの御名は、そのように私たちを立ちあがらせ、自分の足で歩ませてくれる力があるんだなと思うのです。
鈴木牧人