「シャロームを作り出す人(正義と平和は口づけし)」
詩編85:10-14
本日の箇所には「正義と平和は口づけをし」(詩編85:11)と書かれています。詩人にとって「正義と平和」は切り離せないことでした。本当の平和、本当のシャロームがなされていく中で、正義がなされていくことは不可欠だったのです。実際そうなのではないでしょうか。正義がなされない中での平和というのは、いつでも矛盾を抱えているのだと思います。一見、平和と思えるような状況に見えたとしても、その背後に理不尽な状況に苦しめられている人がいたり、自分勝手な人々の振る舞いに悩まされていたりするのだと思います。そして、そういうふうに悩んだり、苦しんだりしている人というのは、大抵、弱い立場に置かれた人や小さくされている人、声を挙げられないような立場に置かれている人です。そういう人がいるのに、いくらうわべだけの平和だけを繕っても、そこに本当の平和はないのです。そして、そのような平和というのは、いつかは無理がきてしまいます。行き詰まってしまうか、やがて破綻してしまうことになるのです。ミャンマーの現状を聞かされる時、つくづく、そう思います。本当の平和、本当のシャロームのためには、正義がなされていくことが不可欠なのだということを思うのです。
ですが、このことを考える際、私たちはもう一つ考えたいことがあります。私たちは時に正義を振り飾りながら戦いに向かってしまうことがあるということです。大概の戦争なんてものは、そういうところから始まるのではないでしょうか。お互いに自分たちの正しさを振りかざし、それを大義として戦いに出かけていく…。お互いにお互いの正義が譲れないから、争いを止めることができない…。そういうことがあるのではないでしょうか。
そのことは何とも悩ましい問題だなと思います。しかし、一つ思います。先ほど、本当の平和、本当のシャロームがなされるために、正義がなされることが必要であるように、本当の正義がなされるために、平和がなされていくことが必要なのだと思います。平和がともなわない中での正義が、はたして本当の正義なのでしょうか。私たちはしばしば、声高に正義を叫びます。しかし、そこに本当の正義があるのでしょうか。その正義が誰かを責めたてるだけの正義、誰かを排除するだけの正義であるなら、そこに本当の正義があるのでしょうか。私たちを本当の平和、シャローム、和解へと至らせる正しさこそが、本当の正義なのだと思うのです。そのような意味でも、「正義と平和が口づけする」ということは言えるのだと思います。私たちは、平和ということを語る地平の先に、いつも正義を見つめていきますし、正義を語ることの地平の先に平和を見つめていくのです。
私たち信仰者の「平和の原体験」は、イエス・キリストの十字架と復活です。イエス・キリストの十字架の前で、自分の正義を振りかざせる人などいません。むしろ、そんなふうに自分の正義に頼って歩んできた歩みに砕かれながら、イエス・キリストの十字架によって神の正義が成り立ち、神との平和と神との和解へと導かれていきました。それが私たちの「平和の原体験」です。私たちが本当の平和について考える時、絶えずここに立ち戻るのです。