「シャロームを作り出す人(平和をこそ、わたしは語るのに)」

詩編120:1-7

ある本に「平和を求めることと、安全保障を求めることは、根本的に向かおうとする方向が違うんだ」ということが書かれていました。安全を求める人というのは、自分の身を守ろうと考えます。そして、そのように自分を守ろうとするがゆえに、自分に危険が及ばないように対処します。自分に危険を及ぼすんじゃないかという相手に対して、身構えます。壁を作ります。場合によっては、相手を威嚇したり、相手が自分を攻撃しないように、こちらから相手を攻撃するのです。そんなふうに、自分の安全を保障するために、どんどん溝を作り、壁を作り、軍備を整えようとしていくことが、安全保障が向かう方向性です。これに対して、平和はそうではありません。平和の実現のためには、何より冒険を覚悟しなければなりません。時にリスクを覚悟して、相手に飛び込んでいくようにしながら、関わりを持とうとしていかなければなりません。そうでなければ、こじれてしまった関係を回復することはできないのですし、そのことなしには平和は建て上げられないのです。そのように、平和を求めることと、安全保障を求めることは、根本的に向かおうとする方向が違うのです。
私たちの多くの人は、平和を望んでいます。しかしながら、平和というものが、どちらの方向にあるのか、私たちはわきまえているでしょうか。平和を求めることと、安全保障を求めることは、根本的に向かおうとする方向が違います。私たちはこのことがごちゃごちゃになってしまっている時、平和を望みながら、実際に向かおうとしている方向は、平和とは全然違う方向だったりするということがあるのではないかと思います。
安全を保障するための手立てを考えることは大事なことです。私たちには守らなければいけないものというのがあるのだと思います。たとえば、子どもたちなどに接していると、「この子たちを何より守りたい」と思います。そのように私たちにとって、私たち自身を含めて、私たちにとってかけがえのない人、大切な人を守るために、安全を保障するための手立てを考えることは大切なことです。ですが、安全を求めることと、平和を求めることは、時に方向性が違うことがあるということをわきまえ知る必要があります。安全ばかりを求めても、それで平和が実現していくわけではないのです。
そして、そのような平和をイメージするためにも、イエス・キリストの十字架の出来事を思い返していきたいと思います。私たちは本来、神様のことなど知らず、神様に背を向けて歩んでいました。神様と私たちとの間には、大きな隔たりがありました。そんな私たちのために、イエス・キリストは私たちのところに来てくださったのです。それは、イエス様にとっては、大きな冒険でした。本来であるなら、神の御子であられるイエス・キリストが私たちのもとに来る必要はありませんでした。しかし、私たちを救うため、私たちの世界に神の平和を実現させるため、イエス・キリストは来てくださったのです。私たちがイエス様のようになることなどできないかも知れません。しかしながら、イエス様から勇気をもらいながら、目の前のその人に関わろうと一歩を踏み出していけたらと思います。

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