「神のことば、イエス・キリスト」

ヨハネによる福音書1章1-3節

ヨハネによる福音書は、冒頭、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」との御言葉から始まっています。この書き方は、旧約聖書の創世記の初めを意識していると言われています。聖書の一番最初、創世記の冒頭は、「初めに、神は天地を創造された」(創世記1:1)という御言葉から始まっています。ヨハネによる福音書は、この創世記の記述を意識しており、創世記1:1が語っている天地が創造される前、その始まりの前から「言」があり、その言は神と共にあり、その言も神そのものであったということを語っているのです。じゃあ、その「言」とは何かということになります。注目したいのは、この「ことば」という字には、葉っぱの漢字がついていないことです。これには深い意味があります。この「ことば」は単数、一つなのです。聖書の中で、そのように「ことば」を単数で表すのは、特別な意味があります。イエス・キリストを指し示す時、そのような表し方をするのです。つまり、ここで言われている「ことば」とはイエス・キリストのことであり、イエス・キリストは天地が創造される前、その始まりの前から神と共にあり、イエス・キリスト御自身が神そのものであったということが語られているのです。本日、このヨハネによる福音書の冒頭の言葉を読みながら、説教のタイトルを「まことの神のことば、イエス・キリスト」というふうにしました。本日はこのことを分かち合いたいと思います。イエス・キリストは、まことの神のことばです。神はイエス・キリストを通して、私たちに神ご自身を表されました。私たちはイエス・キリストによって神を知ることができるのです。
本日の箇所から、一つ整理したいのが、聖書とイエス・キリストの関係です。私たちは、「神のことば」ということを聞く時、聖書の言葉を指して、そういうふうに考えるのだと思います。しかし、本日の箇所で語られている「神の言」とは、聖書を指ししているのではありません。「まことの神のことば」とは、あくまでイエス・キリストです。聖書というのは、突き詰めて言えば、限界ある書物です。なぜなら、聖書は人の手によって書かれたものだからです。聖書というのは、最初から完全にできあがった書物として、私たちの手許にあるのではありません。色々な経過を経て、今の聖書に成立していきました。そこには人の業がありました。ただ、そういう人の業の背後に、人の思いを越えた神の御手の取り扱いがありました。ですから、私たちはこの聖書の言葉を単なる人の言葉ではなく、「神のことば」として信仰をもって受け止めているのです。ですが、本当の意味での偽りのない、「まことの神のことば」は、聖書ではなく、イエス・キリストです。聖書とイエス・キリストとの関係を言い表すとするなら、聖書は、このイエス・キリストを指し示し、証ししている書物だということが言えます。私たちは聖書の先にイエス・キリストを知ることができるし、そのイエス・キリストを通して神を知ることができるのです。このことは新約聖書だけでなく、旧約聖書もそうです。そのように、「まことの神のことば」、イエス・キリストを聖書は証しされているんだということを受け止め、読み解いていくのです。

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