「命の『言』、光の『言』」

ヨハネによる福音書1章4-5節

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(1:4)
ここには、「言」の内には、命があること、そして、この命は、人間を照らす光であることが書かれています。ここで言われている「言」とは、イエス・キリストのことです。イエス・キリストこそが、まことの神のことばであり、このイエス・キリストの内にこそ、命があり、私たち人間を照らす光なのだと記されているのです。私は牧師になる前、4年間ほど、カメラのシャッターなどの精密機械を作るメーカーの設計士として働いていました。その時、新人研修として、工場の三交替の仕事をしたことがあります。初めての一人暮らしで慣れない生活をする中、特に三交替で真夜中の勤務をしていた時は大変でした。その時に慰めや励ましとなったのは、聖書の御言葉と讃美でした。私の中で、聖書を読むとか、讃美するということを思い返す時、原点の一つになっている出来事です。不安や孤独を通らされる中、聖書を読んだり、讃美したり、そういうことに、どれほど励まされてきただろうかと思うのです。そのことを思います時に、本日の箇所にあるように、イエス・キリストの内に命があり、その命は、私たち人間を照らす光であったということに心からアーメンと思うのです。
しかしながら、一方で思うことがあります。御言葉のうちにある命、光が、時に私たちには届かなかったり、受け止められないということもあるのではないでしょうか。本日の箇所には次のような御言葉もあります。
「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1:5)
せっかくの光がそこに輝いていても、その光を理解できないことがあるのです。御言葉の光は私たちに届いているのですが、私たちはそれを分からない、理解できないことがあるのです。実際、そういうことがあるのだと思います。私自身のこととしても思います。御言葉の光が自分に中々届かないということがありました。未だにそういう自分が時々にいます。そして、そういう自分を思う時、それは自分の中にある理解力の問題や知識の問題ではないんじゃないかと思います。そうではなくて、自分の中の御言葉に対する向き合い方の問題のほうが大きいのではないかと思うのです。私は御言葉の向き合い方が変えられていく中で、御言葉の一つ一つが、命として、光として、心に迫ってくるようになりました。私の中では大きく二つのことがあったのだと思っています。一つは、聖書の御言葉を自分に語りかけられている言葉として受け止めることです。自分には無関係の言葉として聞いていても御言葉は私たちの前を素通りしてしまうだけなのだと思います。そうではなくて、私に向けて語られている言葉として受け止めていく時、その言葉は無視できなくなります。そのように向きあい方は変えられていくのだと思います。そして、そのように御言葉に向き合いながら、この御言葉は信じていいんだ…。信じるに値する言葉なんだ…。そのように知らされていく時、私の中で御言葉の一つ一つがよりいっそう心に迫ってくるようになりました。

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