「ただ恵みによって」
ヨハネによる福音書1章14-18節
「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」(1:16)
この御言葉から「恵み」という言葉について考えてみたいと思います。私たちは「恵み」ということをどんなふうに考えているでしょうか。信仰の歩みには色々なことがあります。試みに遭うこともあれば、大変な思いをさせられることもあります。しかしながら、私たちの信仰の歩みは、根本的にイエス・キリストの恵みに生かされる歩みです。神様は、イエス・キリストのあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを与えてくださいました。この恵みに生かされるのが私たちの信仰の歩みです。
ただ、そのことを考える中で、一つ覚えていたいことがあります。それは恵みというのは、せっかく与えられていても、私たちには気づかないことがあったり、恵みと分からないことがあるということです。それは恵みだよと言われても、いまいちピンと来なかったり、実感が湧かなかったりすることもあるのではないでしょうか。そんな私たちがもう一度、恵みを恵みとして受け止め、その恵みを私たち自身の中に取り戻していく時に必要なことは何でしょうか。色々なことが言えるのではないかと思います。私自身の感覚として必要だと感じているのは、「丁寧に」ということです。
先日、NHKの連続テレビ小説は『らんまん』が終了しました。そのドラマで主人公の牧野さんがよく言っていた台詞が「雑草という草はない」という台詞でした。私たちが素通りしてしまう雑草に思える話にもちゃんと名前があって、それぞれに別々の個性や特徴がある…。牧野さんはそのように言いながら、植物の一つ一つに向き合ったのでした。私たちが「丁寧に向きあう」というのは、そういうことなんじゃないかと思います。足もとの一つ一つのことを雑多なこととはせずに、一つ一つ丁寧に向きあっていく時、実はその一つ一つのことに驚くべき命の出来事が起こされていることに気づかされていたり、それまで私たちには分からなかったような、神の不思議さを知らされていく…。そういう中で、恵みというものを噛みしめていくことができるのではないかと思うのです。
今の時代、そういうことを忘れてしまうことがあるように思います。それほど、私たちの周りには目まぐるしく色々なことがあります。課題ばかりだったり、私たちの心をひきつける魅惑的なことばかりだったりします。私たちはそんな周りのことに心が慌ただしく向かってしまって、丁寧に事柄に向き合うということを忘れてしまうことがあります。私自身のこととしてそう思うのです。そういう時、せっかくの一つ一つの恵みが簡単に心をすり抜けてしまっていたり、いつの間にか心カサカサになっていたりしてしまうことがあります。いつの間にか、本来自分が願っていたはずのことと違う方向に心が向かっていることもあります。そんな中、今一度、大切なことを取り戻していくために、「丁寧に」ということは大事なのだと思います。